、砂浜に人の足あとがあります。その形によって見れば、まごう方なき子供の足あとであります。
砂に足あとを認めたものですから、兵部の娘は、その足あとをたよりに、例の爪先走りで、砂浜を一散に走りました。
あるところは、波に洗われて、その足あとが消えているのを、ようやく探し当てて、ともかくも、その足あとの存する限り、走りつづけてみるの勇気を得たようです。
しかし、行けども、行けども、十里の平沙《へいさ》で、一方は海の波の音ばかり――暫くして、ようやく一つの人影を認めました。
その人影の、こっちに向いて走って来るのを認めたのも、いくらも経たない後のことでありましたが、不幸にして、その人影は、どう見直しても、自分の尋ね求める少年の姿ではありません。
だが、自分の走って行くと反対に、向うはこっちを向いて一生懸命に走って来るのが、ちょうど、鏡面に向って相うつしているようなもので、かくしてようやく相近づいた時は、その一方も女であることを知りました。
女は女だが、自分とはまるきり違った体格と風俗の女で、それはこの辺によく見るところの海女《あま》の一人であることに疑いもない。
裸で走って来るらしいことを認め得た時に、そう感づきました。
海岸を海女が走って来る分には、別に怪しいこともないが、いよいよ近づくにつれて、その狼狽《ろうばい》の態度が尋常ではない。何かに怖れて、あわてふためいて、走って来るのではない、逃げて来るのだとさとらないわけにはゆきません。
いよいよ、その証拠には、この海女は一糸もつけない素裸《すっぱだか》で、その着物類をさんざんに取りまとめて、小脇にかいこんで、眉《まゆ》をつり上げ、息をせき切って、せいせい言いながら、はたと自分に突き当りそうになって、はじめて気のついた海女を、兵部の娘がすれちがって見ると、海女が息づかいもせわしく、
「いけないよ、いけないよ、姉《ねえ》や、そっちへ行っちゃいけないよ」
海女は、兵部の娘の前に立ちふさがるようにして、小手を振りました。
「どうして」
「どうしてたって、お前様……」
海女は年の頃三十よりは若いでしょう。見得《みえ》も、外聞も、すっかり忘れて、
「お前様、これより先へ行ってはいけませんよ、わたしと一緒に引返しなさい、早く、早く」
「どうしてなの……」
「海竜《うみりゅう》が出たよ、海竜が……」
「海竜……」
前へ
次へ
全187ページ中69ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング