「ああ、海竜があの塔婆《とうば》の浜のところへ出たよ、こんな角《つの》を二本|生《は》やしたのが」
海女《あま》は後ろの方を指さした手を、あわただしく自分の額《ひたい》の上にかざして見せました。
「海竜って、何なの」
「海の中にいる魔物さ、海の中にすんでいるおろち[#「おろち」に傍点]のことだよ」
「だって、何も見えないじゃないの」
「海ん中にいるから見えないけれど、底をくぐってどこへ出るか知れやしない、そこんとこらあたりへ角を出すかも知れないから、早くお逃げなさい、一緒に」
「何かの間違いじゃないの……」
「間違いどころか、たしかに見たんだよ、こんな角を二本生やした恐ろしい海竜」
海女は二度まで、指を額の上にあてがって、その形をして見せ、しきりに自分の恐怖を、相手方に移そうとつとめるらしいが、兵部の娘にはいっこう利《き》き目《め》がなく、
「それよりか、お前さん、この浜で十歳《とお》ぐらいになる男の子を一人見なくって、清澄の茂太郎といって、可愛らしい子なのよ、そうして歌をうたうのが上手な子供」
「知らねえ、そんな子供を見るどころの話か」
海竜の恐怖で唇をふるわせるだけで、こうしていることさえが不安でたまらないらしく、兵部の娘にもその恐怖を移して、警戒を試みようとするのを、兵部の娘は落着き払って、
「あら、ここに足あとがあるわ」
すり抜けて先へすすみました。
十五
それとは知らず、駒井甚三郎と田山白雲とは、食堂の卓子《テーブル》を中にはさんで、しきりに会話の興が乗っておりました。
マドロス氏はいかにと見れば、室の一隅の横椅子に背をもたせかけて、いびき[#「いびき」に傍点]を立て、仮睡《うたたね》しているところはたあいないものです。
駒井と、田山との会話が、しきりにはずむといううちにも、ほとんど駒井の諄々《じゅんじゅん》たる説明を、田山が頻《しき》りにうなずきながら聴取しているといった方がよいでしょう。
駒井の語るところは、海に関する物語でありました。海に関する物語につれて、当然、船と、魚とのことに進んでいるようです。
「そういうわけで、北緯五十度というところが日本の国境なんですが、それは寒い、冬になると氷と雪とが全く道をうずめて、人馬の往来はなり難いのです。しかし、この地球の上でです、一般にその通り、北緯五十度あたりは寒くて、ほ
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