《うわさ》をしているんですもの」
 そう言って振返って、遠見の番所にかがやく火の光を暫くながめながら、足はやはり茂太郎の行った方向に、休まず歩みつづけられている。
「いやだねえ……お妾だなんて。何も関係はありゃしないのよ。ですけれど、有ったところでどうなの……有っちゃ悪いの?」
 思出し笑いに、凄味《すごみ》というようなものが加わって、その眼の中にいっぱいの媚《こび》が流れる。
「何といっても、あの方は美《い》い男ね、あんな美い男は、ちょっとありませんね。それに比べると田山白雲先生は美い男とはいえないわ。美い男とはいえないけれど、醜男《ぶおとこ》というんじゃないのよ、あれは男らしい男よ――ウスノロなんていやな毛唐だけれど、それでも、素直にあやまって来るとは可愛らしいところがあるじゃないの」
 兵部の娘は、たったいま、出て来た家の、変った家庭味の間にいる人たちのことを回想しながら、さっくさっくと足は砂場を走りながら、
「茂ちゃん――」
 前途に向って、かなり大きな声を出して叫んでみましたが、相変らず何の返事もありません。
「ほんとに、あの子は、こんなに世話を焼かせる子じゃないはずなのに」
 こう言って心配しているうちに、急に面《おもて》の色がくもってきて、
「もしかして、あの子はまた人にさらわれて、人気者にされるんじゃないか知ら、そうだと本当にかわいそうだ」
 こちらへ来て対面の後、話のついでには茂太郎は、いかに人気者という商売が、いやな商売だかということを、兵部の娘に語って聞かせたものです。後ろにいる奴が薄っぺらで、高慢で、雷同で、阿附《あふ》で、そうして、人と、物とを、食い物にすることのほかには何も考えない。ところで、人気者同士には、また人気者同士で、競争があるのだからやりきれない。好んでそのイヤな人気者になりたがって、給金がよけい取れるとか、人にチヤホヤされるとかいって納まり返り、またその納まり返った人気を、他《はた》から奪われまいとして血眼《ちまなこ》になっている。おそらくこの世に、興行師のために、人気者として祭り上げらるるほど悲惨なものはあるまいと、山海の自由に生い立った自然の子が、身を以て痛感しているらしいのを、兵部の娘も全くそれに同情しているものですから、今、そのことを考えると、急に心が暗くなりました。
 しかし、安心したことには、薄明りの海の光で見ると
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