んまりと、焚火の温《ぬく》まりを貪《むさぼ》っている狡猾《こうかつ》なる策略。
 だが、すべてのものは、そう不信を頭において、見くびりを鼻の先へぶらさげてかかった日にはたまらない、せっかくの有縁《うえん》のものをも、無縁の里へ追いやってしまう。
 狗児《くじ》にも仏性《ぶっしょう》ありというのだから、老猫も一切衆生《いっさいしゅじょう》の中の一物ではある。
 その証拠には、さしも柔媚《にゅうび》にして狡猾な老猫も、少し首を振り出して来たようだ。蘆管の音律につれて、その首が左右に軽くゆれ出して来たようです。
 では、おどり出すかな。この分で行くと、この度し難い動物も、他の度し易《やす》い悪獣毒蛇と同じように、茂太郎の動かすリズムにつれて動かされ、おしゃます踊りの手をでも、不思議な態《てい》で見せてくれるかも知れない。
 この面白い首振りのところで、茂太郎が、ふっと蘆管の吹奏《すいそう》をやめてしまったのは惜しいことです。
 笛をやめた茂太郎は、耳をすまして黍畑《きびばたけ》のかなたを見つめました。

         十四

「茂ちゃん、もういいからお帰りよ」
 これより先、遠見の番所をさまよい出した岡本兵部の娘。
 暗いところの砂浜を西に向って、茂太郎が走り出した通りの道を、さまよい歩きながら、
「お帰りってば」
 この娘は、茂太郎が竜燈《りゅうとう》の松にのぼって歌をうたい、それから西に向って走り出した最初の時から見ていて、追わなかった娘であります。
 晩餐《ばんさん》の時、金椎《キンツイ》が大きな不安の色を以て、筆談で念を押した時も、あの子に限って大丈夫よ、と信任を置いて打消した娘であるのに、今になって、その名を呼びながら、帰れ帰れと、さまよい出したのは、何かしら不安に襲《おそ》われて、堪え難かったからであろうと思います。
 陸も、海も、暗く、層々と押寄せて来る波がしらだけの白いのが見えます。
 両袖を胸に合わせて、すっきりした体を両足に載《の》せ、爪先立って早足に砂浜を走りながら、岡本兵部の娘は、
「ホ、ホ、ホ、ホ……」
と、何か淋しそうな思出し笑いをして、
「おかしいじゃありませんか、昨日《きのう》、漁師たちが造船所で話をしているのを、そっと聞いていると、わたしのことを、あれは駒井の殿様のお妾《めかけ》じゃないか知ら、きっとそうに違いない、なんて、まじめで噂
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