ている。頭上に二つの角を持って、さながら鬼竜のようなのが、波にわだかまってこちらに向いている。
 それが、茂太郎の額にのせられながら泳いでいる般若《はんにゃ》の面《めん》だとは、海女は知りません。

         十三

 清澄の茂太郎は、海へ溺《おぼ》れる時に、その大切に小脇にしていた般若の面をぬらすまいとして、頭の上へのせました。
 ちょうど、額へかぶせて頭を隠しているものですから、その形で泳いでいると、どうしても悪竜が一つ、海の中を渡って来るとしか見えません。
 残怨日高《ざんえんひだか》の夜嵐《よあらし》といったような趣《おもむき》を、夜の滄海《そうかい》の上で、不意に見せられた時には、獰猛《どうもう》なる海女《あま》といえども、怖れをなして逃げ去るのは当然でしょう。
 そこで、浜に泳ぎついたというよりは、波に任せて、そっと持って来て置いてもらった茂太郎は、極めて従容《しょうよう》として、砂浜の上にすっくと立ちました。
 海のおばさんの丸くなって逃げて行く後ろ影を、模糊《もこ》の間《かん》にながめながら、茂太郎は、ぬれた身体《からだ》を自分から顧みると、どうしても、その眼が、さいぜん海女が焚き残したところの、石塔の前の焚火のところに向わないわけにはゆきません。
 般若の面を頭へのせたままで、茂太郎は焚火のところへ寄って来ました。
「卒塔婆《そとば》が燃えてらあ、勿体《もったい》ねえな」
 しかし、卒塔婆のほかには、多くの燃料がなかったものですから、子供心にも勿体ないと知りつつ、その卒塔婆の折れを増しくべて、火の勢いを盛んにしてしまいました。
 それからの仕事は着物をぬいでしぼって、それを卒塔婆の火であぶることです。
 般若の面は相変らず、頭の上へのせて着物の一切を脱いでいるから、これも素裸《すっぱだか》であります。
 そこで、着物を乾かしながら、自分の身体《からだ》をあたためながら、いいあんばいに、おあつらえ向きに火が燃やされてあったことに、少なからず感謝の念が湧いてみると当然、この火は、いま、丸くなって逃げて行った海のおばさんの焚き残した火だとさとって、その感謝の念を、右のおばさんのところへ持って行かなければならないと思いました。
 しかるに、そのおばさんは、何だって、ああして丸くなって逃げて行っちまったんだろう。人が助けを呼んだも同然なんだから、むし
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