ことにも頓着なく、裸になった海女は、誰に遠慮もなく、海へざんぶと飛び込んでしまいました。飛び込んで、思うさまに泳ぎはじめました。
それは鮑《あわび》を取るためでもなければ、人魚の戯《たわむ》れといったような洒落《しゃれ》た心持でもない。つまり、風呂へ入る代りに、海で色揚げをするのかも知れません。
或いはまた、御亭主殿を失った精力の有り余る海女《あま》は、情念が昂進して来ると、夜中でも飛び起きて、海で遊んで来ないことには、どうにもこうにも、悶々《もんもん》の肉体をもてあますのだとのこと。
ここに限ったことではないが、海の女のあくらつなところへ、もし、気の抜けた、物ほしそうな男でも通りかかってごらんなさい、それこそ命があぶない。
そういうわけでもあるまいが、かなり長い時間を、思う存分に泳ぎ廻った揚句《あげく》――この辺で見切りをつけようとして立ってみると、波のあるわりあいに、そのところは浅く、潮の正味は下腹のところまでしかありません。
そこで、両手を合わせて面《かお》を一つ撫でてから、その両手を後ろへ廻してぬれた髪の毛を手荒く引っつかみ、頭をやけのよう[#「よう」に傍点]に左右に振って、その髪の毛をグルグルと結ぼうとする途端の拍子に、
「おや!」
と波の間をながめました。どうも人の声がしたようです。それは陸上でしたのではなく、海の中で、そうでなければ海の上の、あまり遠くないところで、人の声がしたようですから、髪の毛を後ろで持ったままで、立ちすくみました。
「おばさあーん」
波が行って戻るリズムにつれて、その声が二度、海の上から聞えました。二度まで聞えたのだから、まさに本物です。しかも、二度目のは、前よりも、ズット近い、自分の足もとから二間とは距《へだ》たらないところから聞えたものですから、きっと、その方を見ると、
「おや!」
さしもの、真黒な肉塊の海女がふるえ上って、後ろでつかんでいた髪の毛の手を放し、大童《おおわらわ》で、二度とは、その声のした方を見返らずに、一目散《いちもくさん》に陸《おか》へ走《は》せあがってしまったのは不思議です。
陸へ走せあがると、置き据えた石塔も、焚き残した卒塔婆《そとば》の火も、一切忘れて、ぬぎ放しにした衣類だけを引っかかえて、まっしぐらに逃げ出したのも道理。
海女が立っていた近くの海上には、世にも怖るべき海獣が一つ、漂う
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