か小さい分のこと、あちらにもこちらにも同じような石塔、五輪のような形を成したのや、無縫の形を成したのまでが、散在していて、そのまわりには、満足であったり、折れたり、裂けたりした卒塔婆《そとば》までが、いくつも立ち乱れています。
けれども、見たところ、それは一定の墓地というものでもないらしい。形ばかりでも菩提寺《ぼだいじ》というものがあって、親類縁者というものが集まって、野辺《のべ》の送りというものを済ました後、霊魂の安住という祈念で納めた特定の場所ではないらしい。
つまり、無縁仏《むえんぼとけ》というものです。無縁仏とすれば、陸地で、畳の上で、ともかくも無事な息を引取ったものではなく、この見渡す限りの広い海原《うなばら》のいずれかで、非業《ひごう》の死を遂げて、その残骸を引渡すところもなく、引取る人もなき、不遇の遊魂を慰めるために、こうして、心ばかりのしるしが営まれたと見るほかはないのであります。
今も、逞《たくま》しい海の労働女がもたらした一つの新しい記念碑も、ただいま陥没した清澄の茂太郎のための早手廻しでない限り、そういった種類の遊魂の衣《ころも》に過ぎまいと思われます。
一基の石塔を押据えてしまってから、海の女は、その石塔の前で火を焚《た》きはじめました。これは迎え火というものでもなく、また送り火というものでもありますまい。
散乱した漂木を集めて火を焚きつけた上に、折れて散った卒塔婆まで掻《か》き集めて加えたところを見ると、これが、後生とか、追善とかを意味する火でないことがわかります。
ところが火が盛んになって、これならばという時分になると、その女は、火をそのままに残して置いて、自分は海岸へ出てしまいました。
海岸の砂浜のところへ出た上は、よく注意して見さえすれば、たった今、清澄の茂太郎が踏み荒した小さな足あとが見えなければならないはずですが、そんなことにはいっこう気がつかず、海の女は、海岸へ出ると、帯を解き、着物を解いて、見るまに素裸の形となってしまいました。
海女《あま》が裸になるのは、少しも珍しいことではありません。裸にならないのが、かえって珍しいくらいのことであります。だけれども今時分、何のために海へ入ろうとするのか知ら。無論、海水浴という時候ではないにきまっているけれど、海女が海中に入るのは、時候を選ぶという約束もないはずです。そんな
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