、眼か、いずれかの器官かによって脳髄にうつったものが、時あって、口をついて現われるのは、頭脳の反芻《はんすう》とは言わば言うべきものですが、時によっては、意外なる消化をもって、全く、独創的に現われて来ることもあれば、記憶そのままが、すんなりと、暗誦《あんしょう》の形で現われて来ることもあるのであります。
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古への人に我ありと
近江の国の……
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ここまでは、はからず口をついて出たでたらめでありますが、近江の国の……と口走ったところから、
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近江の国の
ささ波の
大津の宮に
天《あめ》の下《した》
知ろしめしけむ
すめろぎの
神のみことの
大宮はここと聞けども
大殿はここといへども
春草の……
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と咽喉《のど》が裂けるほどの声で歌い出しました。これは創作でもなければ、出任せでもない。故郷の荒廃を見て、豪邁《ごうまい》なる感傷を歌った千古不滅の歌であります。
「あっ!」
この豪邁なる感傷の歌を声高く歌って、暮れ行く海の表《おもて》をながめている時、不意に潮が満ちて来て、その足もとを洗ったものですから、茂太郎が、あっ! と驚きました。
「ああ、もう日が暮れちゃった」
足を潮に洗われて、はじめて自分の空想も消えるし、感興の歌も止まるし、日の暮れたことがわかりました。
夕陽《ゆうひ》の空には、旗のような鳥だの、垂天の翼のような雲だの、赤く、白く、紫に、菫《すみれ》に、橙《だいだい》に、金色《こんじき》に変ずる山の形だの、空の色だのというものが、見る眼をあやにしたり、心をおどらせたりするけれど、その夕陽が全く落ち尽して、一色の墨色が、天と、地と、水を、塗りつぶしにかかってみると、自分の空想も塗りつぶされて、現実のわれに返ったものと見えます。
そこで、この少年は、またも一散《いっさん》に砂浜の上を走りつづけました。
後生大事《ごしょうだいじ》に、般若《はんにゃ》の面《めん》を小脇にかかえて放さぬことは、いつもに変ることなく、軽快に砂原を走って、あえて疲れ気も見えないことは、山神奇童とうたわれた名にもそむかないようです。
なお、こうして走ることは走るが、その目的がわからないのも、以前と同じことで、ともかくも、あの馴染《なじみ》の多い駒井の家を遠く離れてしまって、あえて帰りを恋しが
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