に、襦袢《じゅばん》から着物を片腕に通してやり、帯を締めさせてやり、その醜体だけは、どうやら応急修理が出来てみると、がんりき[#「がんりき」に傍点]の野郎が、
「水、水を一ぺえ、振舞ってもらいてえんだが、水でいけなければ、梅干を一つ……」
「食い意地の張ってる野郎だよ」
といって、お角がムキになって、がんりき[#「がんりき」に傍点]の横面《よこっつら》を一つ、ピシャリとなぐりました。
 これは少し手荒いようです。なんぼなんでも女だてらに、この際男と名のつくものの横面を、衆人環視の中でピシャリとくらわせるのは、やり過ぎたようですが、またお角の身になってみると、かりにも自分の知らないではない野郎の端くれが、こんなところで、飛んでもない、業ざらしにあい、自分としても、恥も、外聞も忘れて、助けに来てやったのに、着物を着せてもらえば、いい気になって、水が飲みたいとか、梅干が食いたいとか、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》を言い出す恥知らず、図々しさが、我慢にも癪《しゃく》にさわってたまらないのでしょう。
 この場合、飲むことや、食うことなんぞを、言い出すべきはずのものではないと思ったからでしょう。
 しかし、がんりき[#「がんりき」に傍点]の身になってみると、着物を着るよりも、帯をしめるよりも、眼に見える醜態を隠してもらうよりも、先以《まずもっ》て、一杯の水が欲しかったのでしょう。
 決して、お角の腹を立てるように、抱かればおぶさるというような附けあがりから、水がほしいの、梅干が食いたいのと言ったわけではないにきまっている。贅沢三昧《ぜんたくざんまい》ではない、生命の必須の要求なんでしょうが、気の立ちきっているお角には、それがそうは受取れないで、一口に、附け上りの、恥知らずの、図々しさが癪にさわり、衆人環視の前でピシャリと一つ食らわせたから、見ているほどの者が、あっと驚いてしまいました。
 そうしている間にお角は、がんりき[#「がんりき」に傍点]を、遮二無二《しゃにむに》、自分の乗って来た駕籠の中におっぺし込んでしまいました。

         十一

 暮れ行く海をながめて立つ清澄の茂太郎は、即興の歌をうたいました。
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古《いにし》への人に我ありと
近江《あふみ》の国の……
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 これは、いつもながらの出任せであります。ひとたび、耳か
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