とする時、廊下をバタバタと駈けて来て、兵馬の部屋の障子に手をかけたものですから、ハテ、仏頂寺が帰ったのか知ら、それにしては変な足音だ。
ハッと、眼がさめた。
では女中だろう――それにしても女中ならば、いくらなんでも、もう少ししとやかでなければならぬ。寝ついているお客の座敷へ来るには、一応の挨拶もあるべきものを、バタバタと駈けて来て障子へ手をかけると、早くもそれを引開けて、なんにもいわずに勢いよく闖入《ちんにゅう》したものですから、兵馬もこれは変だと思いました。
こういう場合においての兵馬は、金椎《キンツイ》と違う。
兵馬は、不具でない耳を持っていると共に、敵の動静に対しては極めて敏感なる武術の修養を持っている。
何者の闖入者《ちんにゅうしゃ》が、いかなる場合に来ても、よし熟睡中に来ても、うろたえないだけの心得はある。だから、おのれを守る意味においては、金椎あたりとは全然比較にならないのです。
ハッと眠りをさまして、半眼でもって、早くもその闖入者の動静を見て取ってしまいました。
ところが、この闖入者もまた、金椎の場合におけるものとは全く挙動も、性質も、違っている。
あの時のように、一応、外からのぞいて見たり、おとのうてみたりして、おもむろに闖入に取りかかるというのではなく、バタバタと駈けて来て、いきなり障子をあけて、一言もなしにズカズカと人の座敷へ入り込むのだから、かなり大胆なものです。
けれども、この大胆者は、兵馬を怖れしめないで、驚かせるには驚かせたが、むしろ唖然《あぜん》として、あきれ返るように、驚かせたのです。
この闖入者は、赤いひげのマドロス氏とは違って、艶《えん》になまめいた女でありました。
それは特にめざましいもので、男髷《おとこまげ》にゆって、はなやかな縮緬《ちりめん》の襦袢《じゅばん》をつけた手古舞姿《てこまいすがた》の芸者でありましたから、兵馬といえども、呆気《あっけ》に取られないわけにはゆきません。
ははあ、今夜はお祭で、手古舞が出て大騒ぎであった。だが、手古舞がここへ舞い込んで来るのは、どうしたことの間違いだ。
兵馬は寝たままで半眼を開いて、非常な驚異で、手古舞の挙動を注視していると知るや、知らずや、手古舞の無遠慮はいよいよ甚だしいもので、いきなり、火鉢のところへ来てべったりと坐ってしまい、右の手で火鉢の上の鉄瓶を取ると、左の手で湯呑をひっくり返し、もうさめてしまった鉄瓶の湯を、その湯呑の中につぐと、仰向けにグッと傾けてしまいました。
遠慮のない奴もあったものだな、兵馬は呆《あき》れながら、なお油断なくその挙動を注視していると、お湯を飲むこと飲むこと、立てつづけに、何杯も、何杯も、あおりつけて、忽《たちま》ち鉄瓶を空《から》にしてしまいました。鉄瓶が空になったと見ると、それを下へ置いて、ゲッという息をついて、トロンとした眼で室内をながめて、ぐったり身体《からだ》を落ちつけているところ。
ははあ、酔っているな、酔って、戸惑いをしたな。
本来ならば兵馬は、そこで穏かに警告を与えて立退きを命ずべきはずであったが、放って置いても、やがて当人が気がついた時は、いわれるまでもなく、ほうほうの体《てい》で立退くだろうと、タカをくくったものらしく、だまって女のなすがままに任せていると、
「房ちゃん、いいかげんにしてお起きなさいよ、花ちゃんのお帰りよ、お起きなさいな」
と言いました。
それでも返事がないものだから、女は、
「狸をきめても知らないよ、ほんとに独《ひと》り者《もの》はいい気なものさ」
まず、自分がどこへ来ているのか、お気がつかれぬらしい。
「ほんとに疲れた、わたし、こんなに疲れたことはないわ、こんなにお酒を飲ませられちゃったの……房ちゃん、後生《ごしょう》だから、起きて介抱しておくれな」
それでも、まだ返答がない。
「なんて不実な人でしょう、いったい、独り者なんて、みんな不実に出来てるのよ、起きないと承知しないよ」
この分では起しに来るかも知れないと、兵馬はヒヤリとしたが、これは女の虚勢で、口さきだけのおどしに過ぎないものだから安心する。
その時、女がしきりに畳の上を撫で廻しているのは、多分、煙草がのみたくなって、煙管《きせる》をさがしているものらしい。ところが、なかなか手にさわらないものだから、じれったがり、
「ああ、つまらない、せっかく帰って来ても、お帰りなさいと言ってくれる人はなし、お湯《ぶう》は冷めきってしまってるし、煙草まで隠してしまわなくってもいいじゃないの」
何かにつけて突っかかりたがる。これは、したたかに酔っぱらっている証拠である。兵馬は厄介者が舞い込んだなと思いました。
しかし、警告を与えて立退きを命ずるより、当人の気のつくまで待った方が世話がないと、身動きもしないで寝ていると、この闖入者《ちんにゅうしゃ》は、金椎《キンツイ》をおびやかした者よりも遥かに気が強く、トロンとした眼を兵馬の寝ている方へ据えて、
「お起きよ、房ちゃん――今日のお祭に、面白い弥次馬が出たことよ、妙なおじいさんが飛び出して来てね、すっかり世話を焼いちまったの、ずいぶん皮肉なおじいさんよ、それでも、なかなか言うことが通っているから、油断がならないのさ。それともう一つ面白いことはね……お聞きなさいよ、起きてお聞きなさいてば。若いくせに、何だってそう早寝ばっかりしたがるの、寝られないような苦労もしてごらんな、若いうちはさ――その代り、寝られないようなうれしい思いもさせて上げるからさ。一年に一度のお祭じゃないの、夜どおし起きて騒いだって、罰《ばち》は当るまいじゃないか。狸をきめたってわかってることよ、くすぐって上げるよ、それでも起きなけりゃ、ツネって上げることよ、それがイヤなら、素直にお起き」
今にも飛びついて来るかと思うと、やはり口先だけの虚勢で、頭をぐったりと火鉢の前に下げてしまい、やがてそれが横向きになると、火鉢のふちへひじを置いて、頬杖《ほおづえ》をついて、息づかいが極めて静かなものになりました。
急におとなしくなったものだから、兵馬も、いっそう張合いが抜けて、まあ邪魔にもならないのだから、そのままにという気になって、自分は、寝返りを打って寝入ろうとしたが、そうは急に眠れない。
そのうち、急におとなしくなったかの女が、いよいよおとなしくなったものですから、もしやと思ううちに、スヤスヤと眠りに落ちた息づかいですから、
「おや、おれより先に寝ついたのか」
兵馬は驚いて、枕をそばだてて見ると、女は畳の上に腕を枕にして、いい心持で横になっている。こうなっては仕方がない、ゆり起して帰すよりほかに手段がないと、帯引きしめて兵馬は起き出して来ました。
前後も知らず寝込んでしまっている女を兵馬が見ると、さまで醜いとは思いませんでした。本来、女の酔っぱらいほど醜いものはないのに、これは醜いというよりはかえって、絢爛《けんらん》にして、目を奪うという体《てい》たらくです。
友禅というのか、縮緬《ちりめん》というのか知らないが、これは、眼のさめるほどの極彩色のいしょうをつけて、無雑作《むぞうさ》に片はだぬぎの派手な襦袢《じゅばん》の、これ見よがしなのも、そんなにキザとも思われず、つやつやした髪を、男まげに雄渾《ゆうこん》に結い上げたところもいや味にはならず、なんだか豪侠な気が胸に迫るようにも思われます。
それに、こってりと濃い化粧をした女の顔も、吉原あたりで見る鉄火《てっか》のようなところもあって、年も二十を幾つか越したぐらいのところ、芸者としては、今を盛りの芸者ぶりで、立派に江戸芸者で通るほどの女でありましたから、兵馬も一時はあわてました。
やがて、そばへよって、女の肩のところに手をかけて、
「もし、起き給え!」
と軽くゆすりましたが、女は少しもこたえがありません。
さんざんに疲れた上に、充分に酔っている。酔って、場所の見さかいのないほどになっているのだから、手ごたえのないのも無理はあるまい。
「起きなさい!」
そこで、兵馬は、二度目には、以前より手づよくゆすってみました。
でも、ちょっと女が眉《まゆ》のあたりを動かして、口をゆがめただけで、さっぱり手ごたえがありません。この上は、手荒くたたき起すか、そうでなければ、さいぜんこの女が威嚇《いかく》したように、急所を突ッつくか、痛いところをツネるかしないことには、お感じがあるまい。
兵馬は、この女から、起きろ起きろと威嚇されたことを、今度は自分の方から試みて、どうでも、この女の目をさまさせねばならぬ立場に変ったことを、笑止がらずにはおられません。
しかし、ツネったり、ひっかいたりすることは、兵馬の得意とするところではありません。やむなく、正攻法によって、以前より強い刺戟を与えて、驚かすよりほかはなく、
「さあ、起き給え!」
これでもかと、兵馬は思いきって力を入れて女をゆすると、さすがに、女も夢を驚かされました。
その機会をすかさず二三度突くと、女はようやく頭を起して、酔眼を見開いて、どこともつかずうちながめているから、
「ここは君の来るべきところではない、起きて帰りなさい」
兵馬は、そこで手をゆるめて、忠告を加えたが、酔眼と、ねぼけまなこで見返した女の心には、まだなんにもハッキリした観念がうつらないらしい。そうしてものうげに、
「いいのよ、いいのよ」
といって、またも、ひじ枕で横になろうとするから、兵馬はあわてて、
「いけない、眠ってしまってはいけない!」
「うッちゃっといておくれ、かまわないから――」
こちらで言うべきことを、あちらで言って、女はまた寝込んでしまおうとするから、兵馬は荒々しく、
「しっかりし給え!」
荒々しく、じゃけんに女を動かして、寝つかせないものだから、女もたまらなくなり、じれったそうに、
「意地が悪いねえ、こんなに眠いんだから、寝させたっていいじゃないの?」
それをも頓着なしに、兵馬は、
「起きろ、起きろ!」
ちっとも、惰眠《だみん》の隙を与えないものだから、女は、むっくりと起き上りました。
ああ、気がついたか、世話を焼かせる女だ――と、やっと少し安心していると、起き上った女は、酔眼もうろう[#「もうろう」に傍点]として座敷の中をながめていたが、
「ああ眠い……」
と言って、脱兎《だっと》のように兵馬の寝床へもぐり込み、夜具をかぶってしまいました。
ああ、これでは、また虎を山へ追い込んだようなものだ。
ああ、手がつけられない! 兵馬も、うたた感心して、闖入者《ちんにゅうしゃ》というものの扱いにくいことを、今更しみじみと身に覚えたのでしょう。
この闖入者は、食に飢えたのではない、眠りに飢えているのだ。色欲よりは食欲、食欲よりは睡眠欲が、人間に堪え難いと聞いた。
自分の寝床へもぐり込まれてしまって、兵馬は、唖然として舌をまいたけれども、こうなってみると、かえっておかしくもあり、同情心も出て来るので、この上にいっそう荒々しく、夜具を引きめくって、女をつまみ出そう、という気にはなれません。
かえって、まあ、寝るだけ寝させておいてやれ、という気になりました。
兵馬には、人に同情し易《やす》い癖がある、癖というよりも、これは徳といってしかるべきものかも知れない。自分の足場のかたまらないうちに、他に対しての同情は禁物――とそれは兵馬も充分に心得ておりました。
充分に心得ながら、ツイ吉原へ足が向くようになったのは、そもそもこの同情がいけなかったのだと、のぼせきっているうちにも、よくその理解はついておりました。
今だって、そうです。
酔っぱらいは嫌いである。男の酔っぱらいでさえ、醜態と思っている兵馬が、女の酔っぱらいというものを、この世における最も醜いものの一つに数えたいのは、あながち潔癖とばかりも言えますまい。
だが、こうして、ころがり込んでみると、それをひっとらえて面罵《めんば》をこころみたり、たたき出したりするような気になれないことが、自分の弱味だと思わない
前へ
次へ
全26ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング