でもない。人に言わせれば、相手が相手だから、それでのろい[#「のろい」に傍点]のだと笑うかも知れない。
 さて、女の酔っぱらいを醜態の極として、日ごろ、排斥《はいせき》はしていながら、こうして見ると、やはり一種の同情が、兵馬の胸には起るのを禁ずることができません。
 どのみち、こういった社会の女だから是非があるまい。自分が嫌いでも、客のすすめで飲ませられることもあるだろう。
 またなかには、酒でも飲んで心を荒《すさ》ましておかなければ、たまらない女もあるだろう。
 どのみち、好んでこういう社会に入りたがる女ばかりあるものではないから、ここに来るまでには、それぞれ相当の身の上を以て来たのだろうから、それをいちいち、きびしい世間の体面や礼儀で責めるのは、責めるものが酷である。
 むしろ、こうして、前後もわからないほどに酔っぱらって、人の座敷へころがり込み、人の寝床へもぐり込んで寝てしまうようなところに、たまらない可愛らしさがあるではないか――世間の娘や、令嬢たちに、こんな振舞をしろといってもできまい。それを平気でやり通すようになっているところに、無限のふびんさがあるではないか。
 奥深いところにいる――奥深いところでなくても、普通のいわゆる良家の女性には、どんなにしても、そうなれ近づくわけにはゆかないが、この種類の女に限って、いかなる男子をも近づけて、その翻弄《ほんろう》をさえ許すのである――その解放と、放縦《ほうじゅう》によって、救われなかった男性が幾人ある?
 兵馬は、この種類の女を憎いとは思わない。それは清純なる男子の、近づくべからざる種類のものであるとは教えられていながら、今までも、さのみ憎むべきゆえんを見出せなかった。
 だから、ここでも、その睡眠を奪う気にはなれず、よしよし、このまま寝るだけ寝かしておけ、寝るだけ寝たあとは、さめるまでのことだ。こよい一夜は、自分の寝床を犠牲にしたところで、功徳《くどく》にはならずとも、罰は当るまい。
 兵馬もこのごろは、世間を見ているから、それとなく粋を通すというような、ユトリが出来たのかも知れません。
 そこで女は寝るままに任せて、自分は荷物を枕に、合羽《かっぱ》を引きまとうて、火鉢のそばへ横になりました。

         二十

 夜が明けると、兵馬は早立ちのつもり。
 女はそのままにして置いて、出立してしまおうと、まだ暗いうちに浴室まで出かけました。
 ところが、その浴室には、もう朝湯の客が幾人かあって、口々に話をしている。
 それを兵馬が聞くと、意外でした。
 その浴客らの噂《うわさ》は、昨晩、芸者の駈落《かけおち》ということで持切りです。
 はてな、と兵馬が気味悪く思いました。
 聞いていると、松太郎という江戸生れの芸者が、昨晩、急に姿を隠してしまったということ。
 宵のうちは手古舞に出て、夜中過ぎまでお客様と飲んでいたのを見たということだから、逃げたのなら、それから後のことだという。
 そこで兵馬が思い当ることあって、なお、その噂に耳を傾けていると、その芸者の身の上やら、想像やら。
 その言うところによると、松太郎は江戸の生れで、この地へつれて来られたのは二三年前であったとのこと。
 旦那があって、自由にならなかったということ。
 それで、少し自暴《やけ》の気味があって、お客を眼中に置かないような振舞が度々《たびたび》あったが、旦那というのは、それの御機嫌をとるようにしていたということ。
 こっちへ来るまでには、相当の事情があったのだろうが、来た以上は、当人も往生しなければならないと知って、わがままではあったが、お客扱いは悪くはないから、熱くなっているものが、二人や三人ではなかったということ。
 それでもまだ、旦那のほかに、男狂いをしたという評判は聞かない。
 だから、今度のも男と逃げたのではあるまい、土地がイヤになって、江戸が恋しくなったのだろうという想像。
 いや、旦那というのが、しつこくて、わからず屋で、その上に焼き手ときているので、それで松太郎がいや気がさしたのだろうという。
 そうではない、それほどのわからずやでもない、かなり鷹揚《おうよう》なところもあって、松太郎も何か恩義を感じていたと見え――松太郎自身も、近いうちにこの稼業《かぎょう》をやめて、本当のおかみさんになるのだ、とふれていたこともあるのだから、まんざらではあるまい。嫌って逃げたわけでもあるまい。しかし、ああいった女は当てになるものじゃない。とうの昔に、男が来て、しめし合わせておいて、ゆうべのドサクサまぎれに、首尾よく手を取って逃げたのだろう――その男の顔が見てやりたい、土地の者じゃあるまい、江戸の色男だろう――と、指をくわえる者もある。
 そこへ三助がはいって来て、旦那なるものの噂《うわさ》になると、兵馬をして全く失笑せしめる。
 ゆうべ、女に逃げられたと気がついた旦那なるものの、血眼《ちまなこ》になって、あわて出した挙動というものが、三助の口によって、本気の沙汰《さた》に聞えたり、冷かしにされたり、さんざんなものとなる。
 ははあ、眠るということは大した魔力だ。白隠和尚は船の中で眠って、九死一生の難船を知らなかったというが、自分は眠ってしまったから、昨晩あれからその旦那なるものの、うろたえ加減、血迷い加減、また上を下へと、その逃亡芸者を探しまわった人たちの狂奔《きょうほん》というものを、全く知らなかった。
 聞くところによると、その旦那なるものは、半狂乱の体《てい》で、自分が先に立ち、人を八方に走らせて、くだんの芸者の行方《ゆくえ》を探索させたのだそうな。お義理で、ここのうちの雇人たちも、朝まで寝られなかったとのこと。
 しかし、その結果は絶望で、可愛ゆい芸者の行方は、どうしてもわからない。
 手のうちの珠《たま》をとられた旦那というものの失望落胆は、ついに嫉妬邪推に変って、誰ぞ手引をして、逃がした奴があるに違いない、そうでなければ、これほど手際よく行くはずがない――見ていろ、と自暴酒《やけざけ》を飲んで、焦《じ》れているということ。
 兵馬は浴衣《ゆかた》を手に通しながら、苦笑いを禁ずることができません。

 兵馬は異様な心持で、浴室から自分の座敷へ帰ろうとするその廊下の途中で、また一つの座敷から起る噪音《そうおん》に、驚かされてしまいました。
 その座敷の中で、俄《にわ》かに唄《うた》をうたい出したものがあるのです。多分それは寝床の中にいて、宿酔のまださめやらない御苦労なしの出放題《でほうだい》だと思われますが、
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ヤレ出た、鬼熊
ソレ出た、鬼熊
そっちを突ッつけ
こっちを突ッつけ
そっちでいけなきゃ
こっちを突ッつけ
こっちでいけなきゃ
そっちを突ッつけ
ヤレ出た、鬼熊
ソレ出た、鬼熊
ヤレソレ、鬼熊
ドッコイ、キタコリャ
[#ここで字下げ終わり]
 図抜けた声で唄い出したものがありましたから、通りかかった兵馬が、その声に驚かされたのです。しかし、兵馬は、ただ驚かされただけではなく、その早朝からばかばかしい図抜けた声に、何か聞覚えがあるように思われるのも、いっそう兵馬を驚かしたことに力があったかも知れません。
 さりとて、わざわざ障子をあけて、その図抜けた唄の主の首実検《くびじっけん》をしなければならないほどに聞き慣れた声でもありませんでしたから、これにも一種異様のおかしさをこらえて、そのままおのが座敷の方へと足を進ませてしまいました。
 兵馬が驚き、また何となしに記憶を呼び起され、ついに一種異様のおかしさを感ぜしめられたのも道理、この声の主こそは、すなわち有名なる道庵先生でありましたのです。
 ですから、もう少し何とかすれば、兵馬も、先生に顔を合わせることができて、お互いに知らない間柄でもないから、これはこれはと、額に手をおいて、それからお互いに、多少実になる話があったかも知れません。
 もとより、道庵先生も、そのことは知るに由なく、今や蒲団《ふとん》の中に仰向けになって、起きもやらず大声で、ただいまの、「ヤレ出た、鬼熊」をやり出したのであります。

 ここに道庵先生が呼ぶ「鬼熊」というのは、大正昭和の頃、千葉県なにがし村に出没した悪漢をさしたのでないことは無論、また道庵先生自身の頭が、タガというものがゆるみきって、底知れずにダラけきってしまったものだから、ついこんなことを口走るようになったというわけでもなく、別にその時代にも、鬼熊という名物が確かに存在していたのであります。
 それを嘘だと思うものは、当代の鬼熊が活躍した、その同じ千葉県の成田の不動堂へ行ってごらんなさるとわかります。かしこには立派に、その時代の鬼熊の額がかけてある。
 その時代の鬼熊は、現代の鬼熊のように兇暴ではなかったが、力量はたしかに、現代の鬼熊以上でありました。
 これは、今日でも実見した人があるかも知れない。
 神田鎌倉河岸の豊島屋の「樽転《たるころ》」から出た鬼熊は、何代目とつづいて、酒樽をてまりの如く取って、曲持《きょくも》ち、曲差《きょくさ》しを試むる。
「新し橋」の附近には、「何貫何百目何代鬼熊|指《さす》」とほった大石がころがっていたはず。醤油樽《しょうゆだる》一つずつを左右の手にさげ、四斗樽を一つずつ左右の足にはいて、この鬼熊が、柳原の土手を歩いたことがある――見るほどの人が、その樽を空《から》だろうと疑って調べてみると、空どころではない、豊醸《ほうじょう》の新味が充実しきっている。力持の見世物に出ても、鬼熊が大関でありました。

 道庵先生が、ヤレ出た鬼熊、ソレ出た鬼熊、そっちを突ッつけ、こっちを突ッつけ、また出た鬼熊――との蒲団の中から首を出して騒いでいるのは、その鬼熊が、こちらへ興行に来たのかも知れない。それを聞流しにして、おのれが部屋に戻った宇津木兵馬。
 例の女はまだよく寝ている。眼をさまさせないように、充分寝るだけ寝させておくように、兵馬はなるべく音を立てないで、出立の身仕度にかかりました。
 しかし、兵馬のこの心づかいも忽《たちま》ち無駄になってしまい、女ははからず目をさましました。
 目をさました当座は何でもなかったが、枕ざわりが変だと、それから気がついたのでしょう、急に飛び起きて、
「あら!」
 その驚き加減というものはありません。
 これは気の毒なことをした、と兵馬をしてヒヤリとさせたほどです。
「まあ、わたし、どうしましょう?」
 飛び起きて、そこに脚絆《きゃはん》をつけているところの兵馬を見る。
「まあ、どうして、わたし、こんなところへ来てしまったのでしょう?」
「ハハハハ……」
と兵馬が笑う。女は笑うどころではない、唇まで蒼《あお》くなっている。
「御免下さいまし、ほんとうに済みません」
「いや、いいですよ、ごゆっくりお休みなさいまし」
「存じませんものですから……」
 女は飛び起きて、なりふりを直しにかかると、兵馬は、
「みんな、大へん心配したそうですよ」
「ああ、わたしとしたことが……つい酔ったものですから、あなた様にも、どんな失礼をしたかわかりません」
「不意にここへ君が来たものだから、多分、部屋違いだろうと思って、帰るように忠告したのだが、君がきかない」
「ああ、悪うございました」
「君がきかないでいるうちに、ここへ、この畳の上へ寝込んでしまうから、見兼ねて、拙者が起しに来ると、早くも拙者の寝床を奪って、君が寝てしまった」
「済みません、済みません」
「その時、無理にでも起せば起すのだったが、それほど眠いものをと気の毒に存じ、そのままにして、君をそこへ寝かしておいて、拙者はここへゴロ寝をしてしまったよ」
「ま、何という失礼なことでしょう、これというのもお酒のせいです、もう、わたし、これからお酒をやめます、一滴もいただきませんから、どうぞ御勘弁下さいまし」
「酒は、やめた方がいいな……」
「のちほど、またお礼に出ますから……」
と、なりふりを直した女は、蒼《あお》くなって恐れ入ったり、恥入ったり、ほとんど前後も忘れて、駈け出そ
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