へいこう》の讒言《ざんげん》で……」
「…………」
「讒言に逢っちゃ、誰だって、どんなエライ人だって、たまりませんよ」
 彼女は、ようやく菅原道真において、その最も有力な弁護者を見出だしたかのように、一も、二も、讒言ということに持って行ってしまいたがる。
「そうかも知れない」
 茂太郎が、それでやや納得《なっとく》の色があるのに力を得て、
「うちの殿様も、つまり、讒言《ざんげん》に逢って、今のように浪人していらっしゃるのよ、だから、わたし、ほんとうにお気の毒だと思うわ」
「それでお嬢さん、お前は、ここのうちの何なの……?」
「わたし?」
「殿様のところへ、お嫁に来たんじゃないでしょう?」
「イヤな茂ちゃん」
「それじゃお妾《めかけ》さん……?」
「茂ちゃん」
「なに?」
「お前、どうしてそんなことを聞きたがるの? お前らしくもない」
「だって、お前は、ここのうちへ、何しに来ているんだかわからないんだもの。もと、殿様のお家と親類なの?」
「そんなことは、どうでもいいから、茂ちゃん、お歌いなさいな」
といって、兵部の娘は糸巻を置いて、胡琴《こきん》を取上げました。
 歌えといわれたが、歌わない茂太郎は、
「お嬢さん、弁信さんのことを、悪くいうのをおよし」
と急に思い出していう。
「どうして?」
「どうしてだって、弁信さんは悪くいう人じゃない、あの人を悪くいう方が間違っている」
「わたしは、そんな人、いっこう知らない」
 兵部の娘は、三下《さんさが》りの調子で、胡琴を鳴らしてみました。
「お雪ちゃんもいい子だ」
「お雪ちゃんて、どこの子?」
「上野原のお寺の娘よ」
「茂ちゃん、お前は、その娘さんにも可愛がられたろう?」
「可愛がられたさ」
「わたしと、どっちがいい?」
「どっちもだいすき……けれども、お雪ちゃんの方が、お嬢さんより親切ね」
「親切、どんなに親切?」
「どんなに親切ったって、それは口には言えないけれど、お雪ちゃんて人は、ほんとうに親切な人よ、わたしがいないでも、わたしのことを心配していてくれるのよ」
「お雪ちゃんより、わたしの方がこわい?」
「こわかないけれど――」
 茂太郎は、この時、立ち上って、般若《はんにゃ》の面をかぶりました。
「茂ちゃん、もう少しお話しよ」
 その時は、もう茂太郎の姿は、この座敷の中には見えず……といっても、七兵衛のように、忍術まがいの早業《はやわざ》で、消えてなくなったわけではなく、窓から身をおどらして、室外へ飛び出してしまったのです。
 ほどなく洲崎鼻《すのさきばな》の尽頭《じんとう》、東より西に走り来れる山骨《さんこつ》が、海に没して巌角《いわかど》の突兀《とっこつ》たるところ、枝ぶり面白く、海へ向ってのし[#「のし」に傍点]た松の大木の枝の上に、例の般若の面をかぶって腰うちかけ、足を海上にブラ下げた清澄の茂太郎。
 北の方《かた》、目近《まぢか》に大武の岬をながめ、前面、三浦三崎と対し、内湾《うちうみ》と、外湾《そとうみ》との暮れゆく姿を等分にながめながら、有らん限りの声を出して歌いました。
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万木《ばんぼく》おふくが通るげで
五百|雪駄《せった》の音がする
チーカロンドン、ツァン
正木《まさき》千石
那古《なこ》九石
那古の山から鬼が出て
鰹《かつお》の刺身で飲みたがる
チーカロンドン、ツァン
[#ここで字下げ終わり]
 このところより、遠見の番所はさまで遠いところではない。
 あの座敷にいた岡本兵部の娘の耳には、明らかにこの歌の音が聞き取れる。歌の音が聞えるばかりではない、ちょっと身をかがめさえすれば、いま出て行った窓のところから、明らかにこの竜燈の松と、その枝の上に身を置いて、海洋の上に高く足をブラ下げながら、対岸三浦三崎のあたりを眼通りにながめて、あらん限りの声をしぼってうたうその人の姿を、まるで手に取るように、ながめることができるのであります。
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弁信さん
お前は知らない
あたしが
どこにいるか
お前には
わからないだろう
海は広く
山は遠い
向うにぼんやりと
山と山の上に
かすんで見えるのは
富士の山
甲州の上野原でも
あの塔の上では
富士の山が
見えたのに
弁信さん
お前の姿が見えない
[#ここで字下げ終わり]
 清澄の茂太郎は、こういって歌いました。いや、これは歌ではない、単純明亮《たんじゅんめいりょう》に山に向って呼びかけた言葉に過ぎないけれど、茂太郎が叫ぶと、韵文《いんぶん》のように聞える。

 清澄の茂太郎は今、般若の面を小脇にかいこんで、砂浜の間を、まっしぐらに走り出しました。
 その時分、ちょうど、西の空は盛んに焼けて赤くなり、ところによっては海の水さえが、紅を流したようになりました。夕焼けのために空が赤くなり、従って海が赤くなるのは、あえて珍しいことではないが、きょうに限って、その赤い色が違うようです。
 老漁師は、こんなに変った色を好みません。その色ざしによって、なんとか明日の天候を見定めるものですが、この夕べは、十里の砂浜に日和《ひより》を見ようとする一つの漁師の影さえ見えません。
 ところどころに、竜安石を置いたような岩が点出しているだけで、平沙渺漠《へいさびょうばく》人煙を絶するような中を、清澄の茂太郎は、西に向ってまっしぐらに走り出しました。
 真直ぐに行けば忽《たちま》ち海に没入する道も、まがれば無限である。茂太郎は、その無限の海岸線を走ろうというのですから、留め手のない限り、その興の尽き、足の疲れ果つる時を待つよりほかに、留めるすべはない。
 けれども、まっしぐらに走ること数町にして、彼は踏みとどまり、やはり真紅《まっか》に焼けた海のあなたの空に向って、歌をうたう声が聞えます。
 だが、その歌は、音節が聞えるだけで、歌詞は聞えない。聞えてもわかるまい。
 暫く砂浜の上に立って、例の如く、あらん限りの声を揚げて歌をうたっていたが、真紅な西の空に、旗のように白い一点の雲をみとめると、急に歌をやめて、それを見つめる。
 白い一点の雲が動く――動いてこちらへ近づいて来る。
 一片の雲だけが、夕陽の空を、こっちへ向いて飛んで来るという現象は珍しいことだ。ことにその色が、いかにも白い。時としては、銀のような色を翻して見せることもある。
 雲が自身で下りて来る――まことに珍しいことだ。彼は大海の夕暮に立って、下界に降り来る一片の白雲を、飽くまで仰ぎながめている。
 なんのことだ――雲ではない、鳥だ。素敵もない大きな鳥が、充分に翼をのしきって、夕焼けの背景をもって、悠々《ゆうゆう》として舞い下って来るのだった。
 信天翁《あほうどり》か――とびか、鷹か、みさごか、かもめか、なんだか知らないが、ばかに大きな、真白な鳥だ。
 そのうしろを、黒鉛のような夕暮の色が沈鬱《ちんうつ》にし、金色の射る矢の光が荘厳《そうごん》にする。
 なんだ、鳥か――小児が再び走り出したのは、その時からはじまります。雲が心あっておりて来るなら、それに乗りたい、だが、鳥では用がないとでも思ったのだろう。
 鳥の方でもまた、お気に召さないならば……と挨拶して、翼の方向をかえる。
 清澄の茂太郎は、またも、まっしぐらに砂浜の無限の道を走る。
 遠見の番所も見えなくなった。
 駒井の住所も、造船所の旗も、模糊《もこ》としてわからない。
 空の紅《くれない》の色は漸くあせてゆくと、黒の夕暮の色がそれを包んでゆく。ただ一本、すばらしく長い金色の光が、大山の上あたりまで、末期《まつご》の微光を放っているのが残るばかり。
 そこで清澄の茂太郎は、また踏みとどまって、あらん限りの声で歌い出した。
 音節が聞えるだけで、歌詞のわからないのは例の通り――
 ひとしきり、歌をうたうと、またも、西の空の残光に向って、まっしぐらに走り出す。行くことを知って、帰ることを知らないらしいこの少年にあっては、行くことの危険に盲目で、帰ることの安全が忘却される。
 それとも悪魔はよく児童をとらえたがる――鼠取りの姿を仮りて、笛の音でハメリンの町の子を誘い、それを悉《ことごと》くヴェゼルの河の中に落して溺れ死なしたこともある。天の一方に悪魔があって、無限に茂太郎を誘引するのかも知れない。

 果して、その日、晩餐《ばんさん》の席に、駒井の家には、新たに外来の漂泊の愛嬌者の来客を一人迎えたけれど――同時に、いつもいて食卓を賑わす一個の同人を失いました。
 迎えたのは、申すまでもなくマドロス氏、失うたのは、清澄の茂太郎。
 その席で、駒井は、幾度か茂太郎の身の上を心配したけれど、岡本兵部の娘は、一向それを苦にしない。
「あの子は、帰りますよ」
 この娘は、深山と、幽谷と、海浜と、人なきところを好む茂太郎を知っている。
 山に行けば、悪獣とも親しみ、海に入れば、文字通りに魚介《ぎょかい》を友として怖れないことを知っている。茂太郎の不安は、繁昌と、人気と、淫靡《いんび》と、喧噪《けんそう》の室内に置くことで、山海と曠野に放し置くことの、絶対に安全なのを知っている。
 さればこそ、さいぜんも、まっしぐらに砂浜を走る茂太郎を後ろから、最初のうちは呼んでみたけれども、ほどなくあきらめて、そのなすがままに任せてしまった。
 その晩餐の席には、料理方の金椎《キンツイ》も、平等に食卓の一方をしめ、お給仕役は岡本兵部の娘が代りました。といっても、兵部の娘もまた、平等に食卓の一部を持っているのだが、好意を以て金椎の労をねぎらうために給仕をつとめるものらしい。
 これによって見ると、いつもは、清澄の茂太郎もまた、お給仕役をつとめるのだろう。見たところ、田山白雲も、主人役の駒井甚三郎までも、ほとんどここでは、主客の隔てがないらしい。新来のウスノロ氏は、相変らずこの席の人気者でありました。
 兵部の娘に向って、頻《しき》りに面目ながって、ひたあやまりにあやまる形は、またかなり一座の者を喜ばせたようです。
 当の兵部の娘さえ、笑って問題にしないくらいだから、むしろ一種の喜劇的人物の点彩を加えたようなもので、この一座の藹々《あいあい》たる家庭ぶりの中に包まれてしまったようなものです。
 この新来客の姓名は、当人はトーマスとかゼームスとか名乗ったようでしたが、田山白雲は決然として、ウスノロがいい、ウスノロがいい、ウスノロ君と呼べばてっとり早くっていいではないか――と提案したが、それは少なくとも人格に関する、むしろマドロス君と呼ぼうではないか、と駒井の修正案が通過する。
 かくてこのままマドロス君は、駒井一家の家庭の人として包容されるらしいが、駒井甚三郎の心では、これはこれで、また利用の道がある、当分は造船工を手伝わせ――と心に多少の期待を置いているらしい。
 こうして席上はかなり陽気でしたけれど、ひとり、耳の聞えない金椎だけが心配そうに、手帳と鉛筆とを持って、岡本兵部の娘の前へ出て来て、
「茂ちゃんは、どうしました?」
と言いながら、手帳と鉛筆をさしつけると、兵部の娘は、直ちに鉛筆を取って認《したた》めました、
「海岸ヲ西ノ方ヘ向イテ行ッテシマイマシタ、ソノウチ帰ルデショウ」
 それを見ると、金椎の眉根《まゆね》が不安の色に曇り、思わず窓の外から海の方を見ますと、真の闇ながら、空模様が尋常でない。

         十九

 宇津木兵馬は、あすは中房《なかぶさ》の温泉に向けて出立しようと、心をきめて寝《しん》につきました。
 今頃、中房へ行くといえば、誰も相手にしない。案内者ですらも二の足を踏んで引留めるくらいだから、これはむしろ、誰にも告げないで、単騎独行に限ると思いました。
 仏頂寺らの豪傑連はどこを歩いているか、ほとんど寄りつかない。そこでこの連中とは同行のようなものだが、おのおの自由行動を取っているのだから、断わる必要はないようなものの、一応は置手紙をしておこう――それと、防寒の用意だけは多少して行かねばならぬ。場合によっては食糧も――そこで兵馬は、明日出立のことを考えて、今や眠りに落ちよう
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