子が、ゴッチャになっているうち、支那の上海《シャンハイ》あたりにいたこともかなり長かったとやらで、支那語もちょいちょい入ります。
駒井の方は、不自由とは言いながら、ともかく、正確な文法から出ているのだが、マドロスの方はベランメーです。
どうしてこんなところへ流れついたか、という疑問に答えたところを、つづり合わせてみると、なんでも日本の北海へ密猟に来て、その帰りがけに、この近海へ碇泊《ていはく》しているうち、勝負事で、仲間にいじめられるかどうかして、船を逃げ出し、その逃げ出す時に万一の用意として、ポテトを一袋持って海へ飛び込んで泳いでみたが、ポテトが邪魔になって思うように泳げない、そこでぜひなくポテトを打捨てて泳いだら、まもなく海岸へ泳ぎついた。こんなことなら、ポテトを捨てるではなかった――今更ポテトが惜しくてたまらない。あのポテトさえあれば、当座の飢えをしのぐことができたのだ。当座の飢えをしのいでさえいれば、こうして人様の家へ闖入《ちんにゅう》して、首をしめられ、地獄の境まで見せてもらうような羽目にも落ちなかったろうに、返す返すも、ポテトに恨みがあるようなことを言いました。
その愚痴がおかしいといって、聞きながら駒井甚三郎が笑い出すと、田山白雲は何のことだかわからないが、マドロス氏がしきりに手まねをしながら、ポテト、ポテトという語を繰返すものですから、白雲が横の方から口を出して、
「ポテトというのは、何ですか?」
「それは例の、ジャガタラいも[#「いも」に傍点]のことだよ」
「ははあ、あのジャガタラか……」
白雲がなるほどとうなずくところを、駒井が翻訳して、この男が仲間からいじめられて船を逃げ出す時に、ジャガタラいも[#「いも」に傍点]を一袋持って海へ飛び込んだが、ジャガタラいも[#「いも」に傍点]が荷になって思うように泳げない、そこでやむなくジャガタラいも[#「いも」に傍点]を打捨てて泳いだら、捨てて間もなく岸であった、こんなことならジャガタラいも[#「いも」に傍点]を捨てるんではなかった、今更ジャガタラいも[#「いも」に傍点]が惜しい、あのジャガタラいも[#「いも」に傍点]さえあれば、飢えに迫って、こんな憂目を見なくても済んだに……と今この男がジャガタラいも[#「いも」に傍点]に向って、かずかずの恨みを述べているところだ……駒井が白雲に話して聞かせると、白雲が、はじめて大口あいてカラカラと笑いました。
「ははあ、いも[#「いも」に傍点]に恨みが数々ござるというわけか」
まもなく、そのジャガタラいも[#「いも」に傍点]が、金椎《キンツイ》の骨折りで巧みにゆであげられ、ホヤホヤと煙を立てて食卓の上に運ばれたところから、マドロス氏は妙な顔をして、そのジャガタラいも[#「いも」に傍点]を一心にながめやる。
田山白雲は、腹をかかえて笑い、
「さあ、君、遠慮なくやり給え、思わぬところで、わが子にめぐり会ってうれしかろう」
白雲がまず、その最も大きなジャガタラいも[#「いも」に傍点]を取って、皮をむき、塩をつけて、食いはじめました。
そこで三人は、ジャガタラいも[#「いも」に傍点]を食いながら、その不自由な、間違いだらけの会話を、熱心に続ける。
田山白雲の武勇のことになると、駒井は全く舌をまき、マドロス氏は恐れ入って、自分で自分の咽喉《のど》をしめるまねをして苦笑いをする。
その時に白雲が、かなりまじめになって、しかも慨然とした調子で、次の如く言いました。
「時にとって腕力も必要ですよ、腐れ儒者は、腕力はすなわち暴力と言いたがるけれど、人間がことごとく聖人でない限り、腕力でなければ度し難いことがあるのです」
「美術家たるあなたから、腕力の讃美を聞こうとは意外です、いわんや、その実力を示されようとは……」
「拙者はこれが持前ですよ。もっとも、近頃は少しおとなしくなりました。しかし、理由なき腕力を用うるということは断じて致しませんから、御安心下さい。理由ある場合と、事の急なる場合には、筆の先や、舌の力では、緩慢で堪えきれませんからな」
「しかし、腕力は結局、また腕力を生むことになりはしないか?」
「正義にはかないませんよ。正義を遂行するための腕力で、本当の腕力は、正義の存することのほかには、そう強く揮《ふる》えるものじゃありません。陰険卑劣なオッチョコチョイ、つまり、蔭へまわっては、人を陥穽《かんせい》しようとするような奴、表へ出ては、つかみどころのないような奴を、制裁するのは、腕力に限ります。大地の上へ、ウンと一つ投げつけてやるか、腕の一本も打折ってやると、少しは眼がさめます。早い話が、われわれ社会の偽物《にせもの》どもを退治するなんぞには、これがいちばん近道ですよ」
「偽物退治とは?」
「つまり、絵の偽作をする奴なんです、名家の絵を偽作して、盛んに売込んで儲《もう》ける奴があるんですな。泥棒よりもモットたち[#「たち」に傍点]のよくない奴なんですが、こいつが、われわれ社会の裏面に蠅のように寄生して、始末にいかないことがある。なあに、神品は模造すべからざるものだから、見る人が見れば、問題にはならないが、世間はめくら千人だから、その偽物に欺かれるものが意外に多いです。そういう蠅のような偽物どもを、いちいち取ッつかまえて、町奉行へ訴え出るなんぞは煩《わずら》わしくてたまらないから、大家連は、知って相手にしないことがあると、そいつらがいい気になって増長するものだから、画界の風儀を非常に乱す。そこで拙者は、三四人の腕ききを集め、自分が先発で、いちいちその偽物《にせもの》どもをブンなぐって廻ったことがありました」
「それは、なかなか痛快ですが、暴力沙汰で、あべこべに告訴を受けるようなことはありませんでしたか」
「ありませんとも。暴力じゃありません、正当防衛ですもの。盗みをする奴をつかまえて聞かなけりゃ、打ち殺したって苦しかありませんよ、いわんやブンなぐるくらいは何でもないことです。五六人ブンなぐったら、それで少しは利《き》き目《め》がありました。なかには腕を折られて、ヒイヒイ泣いた奴もありましたよ。ああいう蠅共を退治するには、腕力に限るです」
美術界の神聖のために、その風儀の維持のために、偽作者に、腕力制裁を加えることの正義なる所以《ゆえん》を、白雲は力説しました。
そうして、自分がこの偽作者どものブラックリストをこしらえて置いて、片っぱしからやッつけた経験談を語り出でて、そうして今時の腐れ儒者や、青二才が、腕力すなわち暴力とけなして、自分の卑怯《ひきょう》な立場を擁護しようとする風潮を、あざけりました。
十八
ここで三人の会話に花が咲いている時、海に面した他の一方の座敷で、美婦と、妖童とが、しめやかに問答をする。
岡本兵部の娘は、畳の上に置かれた椅子に腰をかけて、すらりとした足を投げ出しながら糸巻に糸をまいていると、それと相向ったところに清澄の茂太郎は、ちょこなんと坐って、両手に糸の束《たば》をかけ、膝の上には、片時も放さぬ般若《はんにゃ》の面がある。
兵部の娘に糸をまかせながら、清澄の茂太郎は、
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可愛い由松《よしまつ》だれと寝た
だれと寝た
お父さんと寝たなら
よしよし
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小音でうたうと、岡本兵部の娘は、それに合わせるように、
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寝たといな
寝たといな
裾に清十郎と
寝たといな
[#ここで字下げ終わり]
そう言いながら、手を休めず糸をまいているところを見れば、少しも変ったところはない。言葉の調子だってその通り、茂太郎に対して親切な姉様《あねさま》ぶりといったような気位が、少しも乱れてはおりません。
これはどうしたのだろう。駒井の手もとへ置いてもらうようになって、その精神がすっかり落ちついて、こうも、たしなみのよいお嬢様の昔に返ったのか。それとも、逢いたがっていた清澄の茂太郎が来たので、その喜びから乱れた心が一時に納まったのか。とにかく、岡本兵部の娘の今の有様は、精神にも、肉体にも、なんらの異状を認めることができず、このままこの家庭の一員として、誰が見ても調子よく納まっているのは、以前を知っている者の眼から見れば、不思議というばかりです。
不思議なのは、そればかりではない。以前を知ったものにとっては、幾多の痛々しいものを知っているでしょう。知って、言わずして過ぐる人の眼には、複雑な嘲笑の色を含んではいるが、当人は、淋しく取澄ましてそれをやり過ごす。それが痛々しいとも見られるし、食えないとも見られる。どちらでも取りようです。
糸を巻かせながら茂太郎は、何か物足らないような風情《ふぜい》で、
「殿様殿様というけれど、どうしてあの人は、殿様なんだろう?」
「どうして殿様だって、あの方は殿様なんだもの」
「だって殿様というものは、槍を立てて、お供をたくさん連れて、乗物に乗って、前触れをして、お通りになるんじゃないか。うちの殿様は、お供もなければ、槍もないし、乗物もない」
「ホホホホ」
それを聞いて、岡本兵部の娘は笑い、
「それはお前、昔のことよ。うちの殿様も、以前はその通りなんでしょう、お大名でこそなかったけれども、立派なお殿様よ」
「今は?」
「今は浪人していらっしゃるから……」
「どうして浪人したの?」
「どうしてだか、知らないわ」
そこで糸巻の糸がこんがらかったのを、兵部の娘が軽くさばく。
「お嬢さん、お前、今日も殿様のお部屋へ行きましたね」
「ええ」
「何をしていたの?」
「寝《やす》んでいたのよ」
「一人で……?」
「無論のことさ」
「叱られるだろう?」
「だって、あそこは静かでいいもの……」
「騒がしいとこはいや?」
「ええ」
「では、どうして胡琴《こきん》をひいたり、あたしに歌をうたわせたりするの?」
「その時は、その時でね」
「ふだんは、静かなところがいいの?」
「ええ……だから殿様のいない時にばかり、あのお部屋へ行って寝るの」
「そう」
茂太郎はまだ心もとない顔をしながら、その問答の一くさりはともかく、それで一段落になると、また、
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可愛い由松だれと寝た
だれと寝た
お父さんと寝たなら
よしよし
[#ここで字下げ終わり]
一つことを歌い出すと、、二度、三度、口をついて出るのがこの少年の癖であります。
その歌は、例によってでたらめではあるが、それはいつ、何の時、どこかで一度は鼓膜に触れたことのあるものが、順序不同に口をついて出るのだから、あながち創作ともいえますまい。そこでちょうど、巻かせた糸の一たばが終りになりました。
「どうも御苦労さま」
「お嬢さん、殿様が浪人をするのは、何か悪いことをしたんだろう?」
「いやだ、悪いことなんかする殿様じゃありませんよ」
「だッて悪いことをしなければ、浪人するはずがないじゃないか?」
「そうとばかりは、言われなくってよ」
「それでも、立派に殿様でいられる人が、浪人をするのは、つまり何か悪いことをして、免職になったんじゃない?」
「そんなことがあるものですか」
兵部の娘は、無意識に駒井の弁護をしてきたが、思うように茂太郎の耳には響かないと見えて、
「いい人だってお前……いい人だって、悪いことをすることもありまさあね」
茂太郎から先手を打たれて、兵部の娘は、ちょっと二の句が継げなくなりました。
なるほど、そういわれてみれば、そこに疑いの余地がないではない。ドコといって非点の打ちようのない殿様が、その位地を去らねばならぬまでの事情を、聞いてもみなかったし、考えてもみなかったが、茂太郎から、かりそめに疑われて、はじめて疑いの心が起りました。
だが、この疑いも、自分の弱味を疑われでもしたかのように、何か、弁護の口実を発見しようとあせった揚句、
「それでもお前……天神様をごらん」
「え?」
「天神様をごらんなさいな、菅原道真公を。天神様はあの通りのいいお方でしょう、それでさえ筑紫《つくし》へ流されたじゃありませんか、時平公《し
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