この闖入者は、その礼節を、戸棚の隅から探し出して来た。
「これこれ」
どうして、今までここんところに気がつかなかったろう、という表情で、戸棚の隅から抱え出したのは、キュラソーの一瓶でありました。闖入者は、このキュラソーの一瓶を戸棚の中から、かつぎ出すと、まるっきり相好《そうごう》をくずしてしまって、至祝珍重の体《てい》であります。
実は、もっと以前に、この礼節をわきまえておらなければならないはずだが、飢えが礼節を忘れしめるほどに深刻であったのを、ここに至って、満腹がまた礼節を思い出させたと見える。
満腹の闖入者は、今しこのキュラソーの一瓶を傾けながら、上機嫌になって、ダンス気取りの足ドリで、早くもこの料理場をすべり出してしまいました。
飢えは室内から街頭に出してはならないが、満腹はどこへ出してもさまで害をなさない。ただキュラソーが、人をキュリオス(好奇《ものずき》)に導くのが、あぶないといえばあぶない。
闖入者は満腹に加うるに陶酔を以てして、この料理場からすべり出したが、そこは街道でもなければ、ヴェルサイユへ行く道でもない、次の室から次の室へと、導かるるまでであります。
その次の室というのが、このごろ一室を建て増した食堂兼客室であり、それを廊下によって二つに分れて行くと、その一方が駒井甚三郎の研究室と寝室、他の一方には――若干の客が逗留《とうりゅう》している。
ウスノロな闖入者は、かなり広い食堂兼客室へ来ると、そのあたりの光景が急に広くなったのと、その室が有する異国情調――実は自国情調とでもいったものに刺戟されたのか、いよいよいい気持になって、片手にキュラソーの瓶をかざしながら、足踏み面白くダンスをはじめました。
この一室で、ウスノロの闖入者《ちんにゅうしゃ》はかなり面白く踊ったが、いつまで踊っても、相手が出て来ないのが不足らしく、もう一つその室を向うにすべり出そうとしました。
このウスノロは、それでもまだ、自省心と、外聞との、全部を失っていない証拠には、ダンスの足踏みも、そう甚《はなは》だしい音を立てず、羽目をはずした声で歌い出さないのでもわかるが、本来、音を立てて人前で踊れないほどに、舞踏も物にはなっていないのだから、声を出して歌うほどに、歌らしいものを心得てはいないのだろう。しかし、いい心持はいい心持であって、このいい心持を、一人だけで占有するには忍びないほどの心持にはなっているらしい。
そこで、彼はいいかげんこの食堂で踊りぬいてから次へ……廊下を渡って一方は主人の室――一方は客の詰所の追分道にかかり、そこで、ちょっと戸惑いをしたようです。
戸惑いをした瞬間には、ああ、これは少し深入りをし過ぎたな、との自省もひらめいたようでしたが、そこはキュラソーの勢いが、一層キュリオシチーのあと押しをして、忽《たちま》ち左に道をえらび、とうとう主人の研究室と、寝室の方へと、無二無三に闖入してしまいました。
それにしても、無用心なことです。駒井のこの住居《すまい》には、このごろ著《いちじる》しく室がふえているはずなのに――金椎《キンツイ》ひとりを眠らせて置いて、みんなどこへ行ったのだろう。少なくとも、田山白雲が来ている以上には、清澄の茂太郎もいなければならぬ、茂太郎がいる以上は、岡本兵部の娘もいるかも知れない――そのほか、それに準じて館山の方からも、造船所方面からも、相当に人の出入りがあるべきはず。それを今日に限って、この異国の、マドロス風の、漂流人らしいウスノロ氏の闖入にまかせて、守護不入の研究室までも荒させようというのは、あまりといえば無用心に過ぎる。
しかし、実はこの無用心が当然で、こんな種類の闖入者があろうということは、想像だも及ばないこの地の住居のことだから、それは無用心を咎《とが》める方が無理だろう。
またしかし、ここは、料理場と違って、駒井甚三郎の研究しかけた事項には、断じて掻《か》き廻させてはならないことがあるに相違ない。ここで革命を行われた日には、料理場の類《たぐい》ではなく、たしかに取返しのつかないことがあるに相違ない。さればこそ駒井甚三郎は、いかなる親近故旧といえども、この室へは入場を謝絶してあるはず。
幸いなことに、この室には錠が卸してありましたから、闖入者も如何《いかん》ともし難く、立ちつくして苦笑いを試みました。
研究室の扉があかなかったものだから、闖入者はにが笑いして暫く立っていたが、また泳ぎ出して、次なる寝室に当ってみると、これが難なくあいたのが不幸でありました。
研究室の扉の頑強なるに似ず、ほとんどこれは手答えなしに、フワリとあいたものですから、闖入者は押しこまれるように、この室に闖入してしまいました。
闖入してみると、闖入者が、
「あっ!」
と、キュラソーの瓶を取落そうとして、やっと食いとめながら眼をまるくして、室の一方を見つめます。
寝台の上に半分ばかり毛布をかけて、一人の若い女が寝ていました。
よく眠る家だとでも思ったのでしょう。前の少年は仮睡であるが、これはとにかく、休むつもりで寝台の上にいる――だが病人ではない、こうして、日中も身を横たえておらねばならぬほどの病人とは思えない。それほどにはやつれが見えない。あたりまえの若い娘、ことになかなかの美人である。それと、ねまきを着ているわけではないのだが、これは本式に寝台に横たわっているとはいえ、やはりうたた寝の種類に違いない。
そうしてみると、この国は、よくうたた寝をする国である。毎日一定の時間には、必ず一定の昼寝をするように定められているのか知らん、と、闖入者《ちんにゅうしゃ》は疑ったのではあるまい。思いがけないところに、思いがけない異性を発見したものだから、その好奇心が、極度に眩惑されてしまったものと見える。
だが、好奇心というものは、もとより事を好むものであります。事がなければ、そのまま消滅してしまうものですが、事がありさえすれば、いよいよ増長して、ついに、罪悪の域まで行かなければとどまらないものであります。それを引きとどめるのに、自制心《コントロール》がある。それを奨励するものに、アルコールがある。
今や、このウスノロ氏には、自制心が眼を閉じて、アルコールが活躍している時だからたまりません。
「エヘヘヘ……」
と忽《たちま》ち薄気味の悪いえみを催しながら、おもむろにこの寝台へ近づいてみました。
この際、美しい女でなくとも、単に異性でありさえすれば、好奇心を誘惑するには十二分でありますが、不幸にして、寝台の上なる女は、浮世絵の黄金時代に見る面影《おもかげ》を備えた美しい女でありました。
多分、碧《あお》い眼で見ても、美しい女は美しく見えるだろうと思う。
ウスノロ氏が、ニヤリニヤリと笑いながら、いよいよ近く寝台に寄って来るのを、軽いいびきを立てている当の主《ぬし》は、いっこうさとろうとはしません。
それに、この時はどういうものか、金椎《キンツイ》を驚かさないように、あの室で食事をした以上の慎重さを以て、徐々《そろそろ》と近づいて行き、やがて、寝台の欄《てすり》のところへすれすれになるまで来ても、じっと娘の顔を見たままで、ほとんど手放しで涎《よだれ》を流すような有様で、島田に結った髪がかなり乱れて、着物の襟はよくキチンと合っていたが、鬢《びん》の下へ折りまげた二の腕が、ほとんどあらわになって、しかし、幸いなことに、帯から下はズッと毛布が守っているものですから、いわば、半身の油絵を見せられるような女の姿に見とれている。
そのまま突立っていたウスノロ氏が、どうしたのか、急に呼吸がハズんでくると、その眼の色まで変りかけてきました。
碧《あお》い眼玉は、別に変りようがあるまいと思われるのに、たしかに眼の色も変り、顔の色も変り、ついにはワナワナとふるえ出したもののようにも見える。
「茂ちゃん、いたずらしちゃいやよ」
その時、女がうわごとのように言いました。
「いやよ、いけないよ、茂ちゃん」
女は再び言って、まだ眠りからさめないで、手で顔の上を払いながら、
「いやだってば、茂ちゃん」
ウスノロ氏は指を出して、娘の頬を二三度突ッついてみたものだから、
「茂ちゃん、いやだってばよ」
女は四たびめに、手で自分の頬先を払って、ようやく眼をあいて見て驚きました。
「あ!」
それは茂ちゃんではない、全く茂ちゃんとは似もつかない――似ないといっても、想像以上の、髪の毛のモジャモジャな、眼の碧い、鼻の尖《とが》った、ひげの赤い、服の破れた大の男が、今しも自分を上から圧迫するようにのぞき込んで、棒のような指で、自分の頬をつついているのを見ると、
「いけない!」
娘はパッとはね起きると、大の男が口早に何か言いました。
何か言ったけれども、それは娘にはわからない。恐怖心でわからないのではなく、言った言葉そのものの音がわからない。
「お前は誰だい、あっちへ行っておいで、誰にことわってここへ来たの、あっちへ行っておいで――」
娘は叱りながら、扉の方をさして、立退きを命ずるほどの勇気がある。
そこで大の男がまたチイチイ、パアパアいう。けれども、何のことだかそれが聞き取れない。また聞き取ってやる必要もない。他の寝室へ闖入《ちんにゅう》して、異性に戯《たわむ》れんとするは、狼藉《ろうぜき》中の狼藉である。容赦と、弁解とを、聞き入るべき余地あるものではない。
「あっちへおいでなさいといったら、おいでなさい――人を呼びますよ、誰か来て下さい!」
娘はついにかなり大きな声を立てましたが、ここまで闖入者を許すほどの家だから、この声が有効になるはずはありますまい。
金椎《キンツイ》がいるにしても、あれは、よし眼がさめていたとて、声では驚かされるものではない。
娘にとっては、かなり危急な場合ではあるが、万事、人間のすることはそう手っ取り早くゆくものではない。猫ですらが、鼠をとった時は、一通りその功名を誇ってから後に食いにかかる。仮りにこのウスノロ氏が、思い設けぬ御馳走にありついたとしたところで、食の後には酒、酒の後には若い女と、こう順序があまりトントン拍子に運び過ぎてみると、なんだか自分ながら、果報のほどに恐ろしくもなるだろう。
まして、これは最初から、兇暴な野心を微塵《みじん》も持って来たのではない。かりそめの漂浪者であってみれば、その咄嗟《とっさ》の間に、兇暴性を充分働かせるだけの器量があるとも思えない。
要するにウスノロ氏は、ウスノロ氏だけのことしかしでかし得ないものだろうから、こういう場合に処するには、また処するだけの道があったろうと思われる。落着いてその道を講ずる余裕を失って、狼狽《ろうばい》してことを乱すと、かえって相手の兇暴性をそそり、敵に乗ぜらるるの結果を生むかも知れない。
恐怖が、この娘を狼狽させたが、狼狽から、いよいよ恐怖がわいて来た。
「行っておしまい、誰か来て下さい――」
二度《ふたたび》大声をあげると、娘は腰から下にかけていた毛布をとって、そのまま力を極めて大の男に投げつけたものですから、大の男がまた大あわてにあわてて、その毛布を取除こうとして、かえって深くかぶり、一時は非常に狼狽したが、やがてそれを取払うと、娘が、
「誰か来て下さい――」
四たび叫びを立てたものですから、大の男が堪《たま》らなくなって、その口をおさえました。口をおさえるにはまず右の腕をのばして、軽々と自分の胸のところまで引きつけて、そこで口をおさえると、娘が、両足をジタバタとさせてもがき[#「もがき」に傍点]ました。
こうなった時に、ウスノロ氏に、はじめて本能的の兇暴性がグングンと芽をのばしたように、
「あれ誰か来て――」
その声を、今度は鬚面《ひげづら》でおさえてしまいました。
大の男はそこで、娘の顔に向って、メチャメチャに接吻《せっぷん》を浴せかけようとする。娘はそうはさせまいと争い且つ叫ぶ。
十六
しかし、人生は、そう無限に闖入者《ちんにゅうしゃ》にのみ兇暴性をた
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