、鉛筆を取って、
「ナニ、世界一、誰ガソウ言ッタ」
金椎はそれを見ながら、口で答える、
「西洋人が言いました、料理では、支那が第一、日本が第二、ヨーロッパは第三であると言いました」
「ソレハマタ、ドウイウワケデ」
「西洋人が申します、支那の料理、口で味わうによろしい、日本の料理、眼で見るによろしい、西洋の料理、鼻でかぐによろしい――そこで、つまり料理は食べるもの、味わってよろしい支那の料理が第一でございますと言いました。しかし、わたしの料理なぞは問題になりません、真似《まね》をするだけのものでございます」
駒井甚三郎はこの一言に趣味を感じ、果して支那料理なるものが、それほど価値のあるものか知らとの疑いを起し、最近、江戸へ書物材料を集めに行った機会に、料理書とおぼしいものを二巻ばかり持ち来って、自分が感心して読んだ後に、それを金椎に与えると、金椎は喜んで、それを大きな紙に写し取って壁間《へきかん》に掲げました。今も金椎の頭の上に見ゆるところのものがそれです。
この壁間に掲げられた料理の書というものは、無点の漢文ですから、誰にも楽に読みこなせるという代物《しろもの》ではない。また読みこなしに、わざわざ入って来ようというほどの者もないところですから、ただはりつけた当人だけが、朝夕それを読んでは胸に納めるだけのことになっているが、ツイこの間、田山白雲がこの部屋へはいり込んで、はからずこの壁書を逐一《ちくいち》読み破って、アッと感嘆して舌をまきました。
料理書の標題には「随園食箪《ずいえんしたん》」とあるが、白雲はよほど、この料理書の張出しには驚異を感じたと見えて、お手のものの絵筆で、そのある部分に朱を加えたり、評語を書きつけたりしたのが、今でもそのままに残っている。その壁書の下で仕事をしていた金椎は、暫くして、卓にもたれてのいねむりが熟睡に落ちたところであります。
眠るつもりでここへ来たのでないことは、金椎の眼の前に、読みさしの書物が伏せてあることでもわかるが、まだ晩餐《ばんさん》までには時間もあるし、主人の外出というようなことで幾分は気もゆるんだと見え、ついうとうとと仮睡に落ちたものでありましょう。本来、少年のことだから、眠れば、仮睡から熟睡に落つるにはたあいがない。
金椎が仮睡から熟睡に落ちている間、この部屋へ、一人の闖入者《ちんにゅうしゃ》が現われました。
これは最初からの闖入者ではない。闖入する以前に、戸もたたいてみたし、何だかわからない言葉もかけてみたのですが、なにぶんの手答えがないために、こらえきれずして、最初は、極めて臆病に戸を押してみたが、ついにはかなり大胆な態度で、戸を押開き、家の中へ入って来ました。
それでも、計画ある闖入者《ちんにゅうしゃ》でない証拠には、まだオドオドとして、何か案内の許しを乞うような言葉があったのですが、誰もそれに挨拶を与えるものがないので、思いきって床の板に踏み上りました。
これはまた、是非もないといえば是非もないことで、つんぼであった金椎《キンツイ》の耳には、ただでさえ、僅かの案内では耳にうつろうはずもないのを、この時は、前にいう通り、仮睡から熟睡へ落ちた酣《たけな》わの時分でしたから、最初のおとないも、あとの闖入も、いっこう注意を呼び起そうはずはなく、一歩一歩に居直る闖入者の大胆なる態度を、如何《いかん》ともすることができません。
この闖入者は、部屋の一隅に眠れる金椎のあることを発見して、一時はギョッとしたようでしたが、やがてニッと物すごい笑い方をして、いっそう足音を忍び、とにかく、その部屋の中をしげしげと見廻しました。
そうして、余物には眼もくれず、釜や、鍋や、どんぶりや、お鉢や、皿や、重箱の類、あらゆる食器という食器の蓋《ふた》を取って見たり、のぞいて見たりしたが、やがて一方の食卓の前に腰をおろすと、そこらにありとあらゆる食物を掻《か》き集め、皿にもり上げ、さじを取って食いはじめました。
この際、この闖入者の風貌を篤《とく》と見ると、眼が碧《あお》で、ひげの赤い異国人でありました。
田山白雲よりもいっそう肥大な形に、ボロボロになった古服とズボンをつけた、マドロス風の異国人であります。
どこの国の異国人だか、それは一向にわからないが、西洋種であり、マドロス風であり、乞食じみていることは、一見、争うべからざるのみならず、ガツガツ飢えきって、多分、一飯の恵みにあずかろうとしてここへ来て、ツイ出来心で、食物にカジリついたものであることはその挙動でもわかる。要するに、闖入者ではあるが強盗ではない。乞食を目的として来たものだろうが、乞食を職業としているものではあるまい。
流れ流れて来た流浪人としても、陸上からは、こんなのが流れて来るはずがない。太平洋の上を一人で流れて来るはずもない。こういう姿を、この際見るのは、降って湧いたようなものだが、何事の詮索《せんさく》よりも急なのは、飢えである。彼はガブリガブリとあらゆる食物を、手当り次第に食っている。ただ食うのではない、アガキ貪《むさぼ》り、ふるいついて食っている。
単に、この部屋にありとあらゆる食物といってしまえばそれだけのものだが、その材料は、金椎としては、かなりに苦心して集めたもので、またすべて苦心して調味を終えたものもあり、苦心してたくわえて置いた調味料もある。
それを、この闖入者は無残にも、固形のものは悉《ことごと》く食い、液体のものは悉く飲むだけの芸当しか知らないらしい。それを片っぱしから取って、胃の腑《ふ》に送りこむだけのことしか知らないらしい。
今日は、あれとこれを調合し、主客の味覚をいちいち参考とし、明日に持越さないだけの配分を見つもり、その秩序整然たる晩餐の準備が、眠れる眼の前で、無残にも蹂躙《じゅうりん》され、顛覆《てんぷく》されている。それを、全然知らない金椎もまた悲惨であるが、飢えのために、この料理王国のあらゆる秩序を蹂躙し、顛覆せねばならぬ運命に置かれた闖入者の身もまた、悲惨といわねばならぬ。
その壁間にかかぐるところ、支那料理法の憲法なる「随園食箪《ずいえんしたん》」には何と書いてある。試みに田山白雲が圏点《けんてん》を付してあるところだけを読んで、仮名交り文に改めてみてもこうである、
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「凡《およ》ソ物ニ先天アル事、人ニ資禀《しひん》アルガ如シ。人ノ性下愚ナル者ハ、孔孟|之《これ》ヲ教フト雖《いへど》モ無益也。物ノ性|良《よろ》シカラズバ、易牙《えきが》之ヲ烹《に》ルト雖モ無味也……」
又|曰《いわ》く、
「大抵一席ノ佳味ハ司厨《しちゅう》ノ功其六ニ居リ、買弁ノ功其四ニ居ル……」
又曰く、
「厨者ノ作料ハ婦人ノ衣服首飾ナリ。天姿アリ、塗抹ヲ善クスト雖モ、而《しか》モ敝衣襤褸《へいいらんる》ナラバ西子《せいし》モ亦《また》以テ容《かたち》ヲ為シ難シ……」
又曰く、
「醤ニ清濃ノ分アリ、油ニ葷素《くんそ》ノ別アリ、酒ニ酸甜《さんてん》ノ異アリ、醋《す》ニ陳新ノ殊アリ、糸毫《しごう》モ錯誤スベカラズ……」
又|曰《いわ》く、
「調剤ノ法ハ物ヲ相シテ而シテ施ス……」
又曰く、
「諺《ことわざ》ニ曰ク、女ヲ相シテ夫ニ配スト。記ニ曰ク、人ハ必ズ其|倫《たぐひ》ニ擬スト。烹調《ほうてう》ノ法何ゾ以テ異ナラン、凡ソ一物ヲ烹成セバ必ズ輔佐ヲ需《もと》ム……」
又曰く、
「味|太《はなは》ダ濃重ナル者ハ只宜シク独用スベシ、搭配スベカラズ……」
又曰く、
「色ノ艶ナルヲ求メテ糖ヲ用ユルハ可ナリ、香ノ高キヲ求メテ香料ヲ用ユルハ不可ナリ……」
又曰く、
「一物ハ一物ノ味アリ、混ズベカラズシテ而シテ之《これ》ヲ同ジウスルハ、ナホ聖人、教ヘヲ設クルニ才ニヨツテ育ヲ楽シミ一律ニ拘ラズ、所謂《いはゆる》君子成人ノ美ナリ……」
又曰く、
「ヨク菜ヲ治スル者ハ須《すべから》ク……一物ヲシテ各々《おのおの》一性ヲ献ジ、一椀ヲシテ各々一味ヲ成サシム……」
又曰く、
「古語ニ曰ク、美食ハ美器ニ如《し》カズト……」
又曰く、
「良厨ハ多ク刀ヲ磨シ、多ク布ヲ換ヘ、多ク板ヲ削リ、多ク手ヲ洗ヒ、然《しか》ル後、菜ヲ治ス……」
[#ここで字下げ終わり]
「随園食箪《ずいえんしたん》」と「戒単」とは支那料理法の論語であり、憲法であります。
今や、その論語と憲法の明章たる下で、蹂躙《じゅうりん》と破壊とが行われている。見給え、この闖入者《ちんにゅうしゃ》は薄と厚とを知らない、醤と油とをわきまえない、清と濃との分も、葷《くん》と素《そ》との別も頓着しない――およそ口腹を満たし得るものは、皆ひっかき廻して口に送る。料理王国の権威は地に委して、すさまじい混乱が、つむじのような勢いで行われている。
この闖入者にとっては、やむを得ざる生の衝動かも知れないが、料理王国の上からいえば、許すべからざる乱賊であります。
革命は飢えから起ることもあるが、飢えが必ず革命を起すとは限らない、飢えが革命まで行くには、時代の圧迫という不可抗力と、煽動屋というブローカーの手を経る必要があるように思う。
だから、ここで行われているのは、実はまだ革命というには甚《はなは》だ距離のあるもので、モッブというにも足りない。ほんの些細のないしょごとに過ぎないでしょう。何となれば、革命のした仕事は取返しがつかないが、モッブの仕事は、あとで相当に整理もできるし、回復もできるはずであります。殊に、飢えが室内で行われ、また室内で回復されている間は、ほとんど絶対的といってよいほど安全で、どう間違っても、その室内者の胃の腑《ふ》を充たす悩みだけの時間であるが、これに反して、飢えが室内から街頭へ出た時はあぶない。
例えば、ありとあらゆる飲食物を、滅茶苦茶に掻《か》きまぜてみたところで、それを悉《ことごと》く食い尽してみたところで、後で多少料理番を狼狽《ろうばい》させるだけのことで、取返しのつかない欠陥というものは残らないはずであります。闖入者がいかにこの場で蹂躙《じゅうりん》をほしいままにしても、それは結局、この金椎《キンツイ》の平和なる仮睡をさえ破ることなくして終るのだからツミはない。
果して、いくばくもなく、胃の腑を充分に満足させた闖入者は、げんなりとして、人のよい顔をし、充ち満ちた腹をゆすぶって、四方の隅々までジロリジロリと見廻しました。
ほんとうに人のよい顔です。十九年ツーロンの牢にいた罪人は、こんなおめでたい顔をしてはいなかった。食に充ち満ちた闖入者は、炉にあった鉄瓶を取って、その生ぬるい湯をガブガブと飲む。
そこで、またも念入りに金椎の寝顔を見てニッコリと笑ったが、これとても、好々たる好人物の表情で、この時、「お前、何をしているの、食べてしまったら、サッサと膳をお洗い……ほんとにウスノロだね」とおかみさんにでも怒鳴られようものなら、一も二もなく、「はい、はい」と恐れ入って、流し元へお膳を洗いに行く宿六《やどろく》の顔にこんなのがある。
しかし、金椎はまだ眼がさめない。そこで、人のよい闖入者《ちんにゅうしゃ》はいよいよ、いい気持になって、深々と椅子に腰をおろして、ついに懐中からマドロスパイプを取り出してしまいました。
パイプに、きざみをつめて、炉の中の火をかき起そうとした時、闖入者は、ハタと膝を打ちました。膝を打った時は無論、パイプは食卓の上に載せてあったので、彼はここで、食後の一ぷくをやる以前に、忘れきっていた重大な一事を思い出したかに見ゆる。
そこで、パイプも、火箸《ひばし》も、さし置いて、彼は立ち上り、よろめいて、そうして戸棚のところへ行って、その戸棚を慎重にあけて、そうして、以前よりはいっそう人のよさそうな顔を、ズッと戸棚の中につき込み、あれか、これかと戸棚の中を物色したものです。
繰返していう通り、これは盗みを目的として来たのではない。眼前口頭の飢えが満たされさえすれば、暗いところをのぞいて見る必要は更になかるべきはずだが、かく戸棚の隅々を調べにかかったのは、衣食足って礼節を知る、という段取りかも知れない。果して
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