あります。
お松は上方《かみがた》にある時、ある舞と踊りの老師匠の口から、次のように聞かされたことがあります。
今の世は、踊りの振りというものも、舞の手というものも、みんなきまる[#「きまる」に傍点]だけはきま[#「きま」に傍点]ってしまった。新作とはいうけれど、そのきまった形を、前後にくりかえしたり、左右に焼き直したりするだけのものだから、いくつ見ても、要するに同じようなもので、多く見れば見るほど、倦厭《けんえん》と、疲労とを催すに過ぎない。これは形が爛熟《らんじゅく》して、精神が消えてしまったのだ。舞踊の起った最初の歓喜の心を忘れて、末の形に走るようになったから、今、都の踊りに、見られた踊りは一つもない。そこへゆくと、古来伝わった郷土郷土の踊りを、生気の溢《あふ》れたそぼくな若い人たちが器量一ぱいに踊ると、はじめて、人間の歓喜、勇躍の精髄が、かくもあろうかとおもわれて、手に汗をにぎることがある。都の舞踊を改革するならば、郷土の舞踊の精気を取入れなければならぬ。そうでなければ踊りは死んでしまう。いや、今の都の踊りはすべて死んでいるのだ――こう言ってその老師匠は、ひま[#「ひま」に
前へ
次へ
全251ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング