々を廻りきれないほどになりました。その苦労は、少しもお松の厭《いと》うところではありません。
毎日、朝早く沢井を出でては、夜おそく帰ることもあります。
多摩川を中にさしはさんでの上下へ、水の浸透するように、お松の事業が進んで行くのであります。今は秩父境までも、お松を中心とするの講習会が入り込んで行きました。
そこでお松は、もうこれ以上、自分の足では覚束《おぼつか》ないという時になって、与八がお松のために馬を提供しました。
お松は毎日、馬に乗って村里めぐりをやり出しましたが、最初のうちは、与八が馬の口を取ったのですけれど、それでは労力の不経済だから、後にはお松自身で手綱《たづな》を取って、与八は家に残って働くようになりました。
ただ、例のムク犬が始終、お松の行くところへ行を共にして、その護衛の任に当ることだけは、いつも変りません。
そのうちに、誰が発起《ほっき》したともなく、月の二十三日を地蔵講として、この日には、お地蔵様を祭って、楽しく遊ぼうではないか、という議が持上りました。
つまり、お松の教え子たちが発起で、月の二十三日を、挙《こぞ》っての祭日にきめようという計画が、
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