しぐらに砂浜の無限の道を走る。
遠見の番所も見えなくなった。
駒井の住所も、造船所の旗も、模糊《もこ》としてわからない。
空の紅《くれない》の色は漸くあせてゆくと、黒の夕暮の色がそれを包んでゆく。ただ一本、すばらしく長い金色の光が、大山の上あたりまで、末期《まつご》の微光を放っているのが残るばかり。
そこで清澄の茂太郎は、また踏みとどまって、あらん限りの声で歌い出した。
音節が聞えるだけで、歌詞のわからないのは例の通り――
ひとしきり、歌をうたうと、またも、西の空の残光に向って、まっしぐらに走り出す。行くことを知って、帰ることを知らないらしいこの少年にあっては、行くことの危険に盲目で、帰ることの安全が忘却される。
それとも悪魔はよく児童をとらえたがる――鼠取りの姿を仮りて、笛の音でハメリンの町の子を誘い、それを悉《ことごと》くヴェゼルの河の中に落して溺れ死なしたこともある。天の一方に悪魔があって、無限に茂太郎を誘引するのかも知れない。
果して、その日、晩餐《ばんさん》の席に、駒井の家には、新たに外来の漂泊の愛嬌者の来客を一人迎えたけれど――同時に、いつもいて食卓を賑わす一個の同人を失いました。
迎えたのは、申すまでもなくマドロス氏、失うたのは、清澄の茂太郎。
その席で、駒井は、幾度か茂太郎の身の上を心配したけれど、岡本兵部の娘は、一向それを苦にしない。
「あの子は、帰りますよ」
この娘は、深山と、幽谷と、海浜と、人なきところを好む茂太郎を知っている。
山に行けば、悪獣とも親しみ、海に入れば、文字通りに魚介《ぎょかい》を友として怖れないことを知っている。茂太郎の不安は、繁昌と、人気と、淫靡《いんび》と、喧噪《けんそう》の室内に置くことで、山海と曠野に放し置くことの、絶対に安全なのを知っている。
さればこそ、さいぜんも、まっしぐらに砂浜を走る茂太郎を後ろから、最初のうちは呼んでみたけれども、ほどなくあきらめて、そのなすがままに任せてしまった。
その晩餐の席には、料理方の金椎《キンツイ》も、平等に食卓の一方をしめ、お給仕役は岡本兵部の娘が代りました。といっても、兵部の娘もまた、平等に食卓の一部を持っているのだが、好意を以て金椎の労をねぎらうために給仕をつとめるものらしい。
これによって見ると、いつもは、清澄の茂太郎もまた、お給仕役をつとめるのだろう。見たところ、田山白雲も、主人役の駒井甚三郎までも、ほとんどここでは、主客の隔てがないらしい。新来のウスノロ氏は、相変らずこの席の人気者でありました。
兵部の娘に向って、頻《しき》りに面目ながって、ひたあやまりにあやまる形は、またかなり一座の者を喜ばせたようです。
当の兵部の娘さえ、笑って問題にしないくらいだから、むしろ一種の喜劇的人物の点彩を加えたようなもので、この一座の藹々《あいあい》たる家庭ぶりの中に包まれてしまったようなものです。
この新来客の姓名は、当人はトーマスとかゼームスとか名乗ったようでしたが、田山白雲は決然として、ウスノロがいい、ウスノロがいい、ウスノロ君と呼べばてっとり早くっていいではないか――と提案したが、それは少なくとも人格に関する、むしろマドロス君と呼ぼうではないか、と駒井の修正案が通過する。
かくてこのままマドロス君は、駒井一家の家庭の人として包容されるらしいが、駒井甚三郎の心では、これはこれで、また利用の道がある、当分は造船工を手伝わせ――と心に多少の期待を置いているらしい。
こうして席上はかなり陽気でしたけれど、ひとり、耳の聞えない金椎だけが心配そうに、手帳と鉛筆とを持って、岡本兵部の娘の前へ出て来て、
「茂ちゃんは、どうしました?」
と言いながら、手帳と鉛筆をさしつけると、兵部の娘は、直ちに鉛筆を取って認《したた》めました、
「海岸ヲ西ノ方ヘ向イテ行ッテシマイマシタ、ソノウチ帰ルデショウ」
それを見ると、金椎の眉根《まゆね》が不安の色に曇り、思わず窓の外から海の方を見ますと、真の闇ながら、空模様が尋常でない。
十九
宇津木兵馬は、あすは中房《なかぶさ》の温泉に向けて出立しようと、心をきめて寝《しん》につきました。
今頃、中房へ行くといえば、誰も相手にしない。案内者ですらも二の足を踏んで引留めるくらいだから、これはむしろ、誰にも告げないで、単騎独行に限ると思いました。
仏頂寺らの豪傑連はどこを歩いているか、ほとんど寄りつかない。そこでこの連中とは同行のようなものだが、おのおの自由行動を取っているのだから、断わる必要はないようなものの、一応は置手紙をしておこう――それと、防寒の用意だけは多少して行かねばならぬ。場合によっては食糧も――そこで兵馬は、明日出立のことを考えて、今や眠りに落ちよう
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