ち、白雲は、鈍重な形をして画框《がわく》を腋《わき》にかい込んでいる。二人ともに眼は海上遠く注がれながら、足は絶えず砂浜の上を歩いている。
田山白雲は房州に来て、海を見ることの驚異に打たれてから、しきりに海を描きたがっているらしい。
白雲がいう。
「いや、水の色にこうまで変化があろうとは思いませんでした」
「線と点だけで、この変化が現わしきれますかね?」
と二人が相顧《あいかえり》みて立つ。
「左様――谿谷《けいこく》の水と、河川の水とは、東洋画の領分かも知れませんが、海洋の水は、色を以て現わした方が、という気分がしないでもありません」
「線を以て、色を現わし得るというあなたの見識が動き出しましたか?」
「そういうわけではありません……つまり、淡水《たんすい》と鹹水《かんすい》との区別かも知れません。淡水は、線を以て描くに宜《よろ》しく、鹹水は、色を以て現わすのが適当という程度のものか知ら……」
「一概には言えますまい――しかし、東洋画で、海を描いて成功したものはありませんですか?」
「ないことはないでしょうが、私はまだ不幸にしてブッつかりません」
「水の変化が、多過ぎるからでしょう」
「そうかも知れませんが、また変化が少な過ぎるとも言えます」
「あなたはいつぞや、小湊《こみなと》の浜辺に遊んで、海の水の変化と、感情と、生命とを、私に教えましたが、あなたたちの見る変化と、われわれの見る変化とは違います」
駒井甚三郎は、海水の一部分だけに眼を落してこう言うと、白雲は、やはり広く眼を注いだままで、
「どう違いますか?」
「われわれは、まず海の水の色を見ます。それも色の変化を、あなたのように感情的には見ないで、数学的に見るのです」
「色を数学的にですか……それは、どういう見方でしょう?」
「まず、水の色の変化が幾通りあるかということを調べます。手にすくい上げて見れば透明無色なる水も、ところにより、時によって、いろいろに変化があるのは誰も見る通り、それを学者は精密に調べて、十一の度数に分けていました」
「ははあ、つまり、この水の色の種類に、十一の変化があるというわけですね」
「そうです……けれども、海の水には、まだ学者の十一には当てはまらない色があるように思われます、十一の標準もやがて変るでしょう」
「そうですか。そういうことも、やはり学者の領分でなく、画家がやりたいことですね、円山応挙などにやらせると、モッと精密に色わけをするかも知れません」
「いや、精密な色わけは、やっぱり西洋人の方が上でしょう。水の色を分類するのみならず、水の温度をも、彼等は精密に研究していますよ」
「なるほど……水の温度というものがありましたね、それも数字で現わさねばなりません。温度の高低が、色の深浅と関係がありますか知ら?」
田山白雲も、知らず識《し》らず頭を数字の方に引向けられました。
「温度を計るといううちにも、時間と場所はもとより、海面と、海中と、海岸とで、それぞれ温度が違います、それを計るには、第一に、精良なる寒暖計というものがなければなりません、その寒暖計を適度の海中に下ろすには、またそれに相当した機械が必要です」
「なるほど――」
「そうでなければ、海水のある程度の水を、いちいち汲み上げて、それを、外気の影響を受けないように、持上げる器械が必要です……私はこのごろ、その器械を一つ工夫しました」
「ははあ。そうして、この水の温か味というものは、大抵どのくらいあるものですか?」
田山白雲は、海を見て、その感情の奥のひらめきに打たれて、水が活《い》きている、と叫んだのは今にはじまったことではないが、駒井のような冷静な見方にもまた、相当の興味を引かれると見えて、水の色を、十一に分類したその根拠と種類を、もう少し尋ねてもみたし、また水の温度を、いちいち数字的にも知っておきたいらしい。
「海の水の温度は、大抵三十度より上にのぼることはなく、零点の下三度より降ることはありませんよ」
「その一度二度というのは、あなたがお考えになった器械によってつけたのですか?」
「いいえ、物の寒暖を計るには、西洋では、学者の間に一定の器械があるのです、つまり、寒暖計というものにも幾種類もあって、学者の仲間では、そのうちのCというのを用います。昨年の十月、私がそれによって調べてみたところによると、この辺の、外洋の表面の温度は二十四度前後、三百尺ほど下ると、十七度前後になってしまいます」
「下へ行くほど、つめたいのですね」
「無論です……北海の方へ行けばモット相違があるでしょう、温められた河の水が注ぎ込む近海ほど、温度が高いのですね。今年の七月土用の頃、水田の中の水をはかってみたら、四十度から五十度の間でありました」
「そうですか」
田山白雲も、ここでは、水が活《い》き
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