き合いがありませんから、これが無作法にもなりませんし、またちっとも恥かしいとは思いません。
万葉集の歌には、よく髪の毛のことがありますのよ、女は髪の毛を、生命《いのち》のように大事にすることがあります。
自分でさえ、手ざわりのやわらかな毛をいじっていると、可愛らしくなってしまうことがあります。
わたしは、髪の毛を美しく結んで、人に見せるよりは、解いた髪の毛を、自分の腕に巻いている心持が何とも言われません。
弁信さん――
こうして、わたくしは、自分の髪の毛を腕に巻いたり、ろくでもない器量を水鏡にうつしたりして、ひとり、いい気持になって、離れ岩の上でさんざん遊んで、宿へ帰ることを楽しみにしていたのですが……もう二度とはあの岩へ行きますまい。
今度という今度は、もうあの岩へは遊びに行きますまい。……こんなことを言いますと、また何か水の底で、おそろしい人の死骸でも見たのかと、あなたが心配してお尋ねになる様子が、わたくしにありありとうつりますが、決して、そういうわけではないのです。
きょうというきょうは、何ともいわれないいやな思いが、不意にあの岩の上で起りましたのは……
弁信さん……
あなただからそれを言います……あなたでなければ、それを聞いて下さる人はありません。それは水の中で、ものすごい人の姿を見たのではありません。
わたしのお腹の中で、何ともいえないいやな思いを致しました。
弁信さん――
それをいうのは苦しうございます。いつぞや、あのいやなおばさんは、わたしの乳を見て、黒くなったと言いました。
……その時はわたし、いやな思いをしただけでしたけれど、きょうは人の口からでなく、自分のお腹の中で、そのいやな声が聞えました。
ああ、弁信さん――
わたしは妊娠したのじゃないでしょうか。
もしそうだとすれば、ほんとうに、どうしたらいいでしょう。
あの時、あのいやなおばさんから、乳が黒いとからかわれた時、真赤になったわたしは、ただ恥かしく、口惜《くや》しい思いをしたばかりでしたけれど、今は、わたしのお腹の中が動きます。
ああ、怖ろしいことです……わたしは、ほんとうに身持になったのではないかと、この胸がさわぎ出しました。そう思うと、いよいよお腹の中で、何か動きつづけているようです。
そんなはずは決してない、と気を取り直して、心を落着けようとしていますけれど、もし、そうであったら、わたしは取返しがつきません。
わたしは、世間へ顔向けができません。わたしは、もう以前の無邪気な心で弁信さんに顔を向けることさえできません。
わたしの一生はこれから廃物《すたりもの》です。ああ、怖ろしい身の破滅が、わたしの身にふりかかって来たようです。
今まで生涯に全く覚えのない怖ろしさに、わたしの胸がおののきます。これを書いている筆のさきがふるえています。
わたしの顔の色は、土のように変っているに違いない。
弁信さん――
こんな事まで打明けますと、あなたはさだめし、わたしが温泉へ来てから、手のつけられないいたずら[#「いたずら」に傍点]者にでもなったようにお考えになるかも知れませんが、決して、そんなことはありませんのよ。
わたしは、どなたにも同じようにおつき合いをし、同じように可愛がられて、少しもみだらなことに落ちた覚えはありませんのに……
もし、わたしが身重《みおも》になったら、世間は何と言うでしょう……
なお、わたしが父《てて》なし子《ご》を生んだというようなことが、仮りにでも本当でしたら、怖ろしいことではありませんか。わたしの罪も二重になり、わたしの不幸も二重になるではありませんか。
よし、わたしは一生すたり物になるとしても、その子が……その子の長い一生が、またすたり物になるではありませんか。
弁信さん――
あなた、よく教えて下さい。覚えのない妊娠ということがありますか。
父のないのに、子というものが生れるものでしょうか……
わたしは、この苦しい思いを打明けて、誰にも相談することができません。
こんな時こそ、せめて、あのいやなおばさんでもいてくれたら、かえっていい相談相手であったかも知れませんが、今はその人さえおりません。
ぜひなくこうして、遠いところにいるあなたに手紙で御相談をかけてみる、わたしの胸の苦しさをお察しください。
よく、昔の本などには、物の精に感じて、身持になった女があるそうですが、わたしのもそんなのではないでしょうか。
今の世でそんなことを言えば笑われてしまいます。
身持になったわたしを、だれも、不義いたずらの結果と見ないものはありますまい。
郷里へ帰れば、知れる限りの人の指が、わたしの身体《からだ》へ蜂の巣のように突き刺されて、そのあざ笑いの痛さ、冷たさが、想像してさえ骨身にしみるようです。
万一、これが本当の身持であったなら、どうしても、
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