辺に、そんなことがありましたか?」
「ええ、初めの方に、そんなことがあったようです……」
「さきほども聞いていますと、このお雪ちゃんが、ツガザクラの下を通ったとか、通らなかったとかいって、小言《こごと》をいっておいでのようでしたが、お雪ちゃんの文章は、たいてい一度は、わたしが見て上げますが、そんなことは書きはしなかったようですよ、よく読み直してごらんなさい」
「いや、わたしも、ちょっと眼に触れたままですから……」
「かりにも学者として、左様な粗末な、不親切な、見方をなさってはいけません。小説としても馬琴ほどの作者になれば、室町御所に虎を出そうとも、利根川の岸に芳流閣を築こうと、八丈島で馬に乗ろうと、安房《あわ》の国で鯉をつろうとも、皆それだけの頭と、働きを以てやるのですから、あなた方が、一方向きの知識だけでかれこれいうのは、僭越というものです」
池田良斎は穏かに、この博識ぶった一方向きの山の通人をいましめて、それをしおに立ち上り、浴室へ行くと、一座の者が、われもわれもとあとを続いて、炉辺に残れるはお雪ちゃんと、留守番の老爺《おやじ》と、薄っぺらな山の通人と、その連れの者だけでありました。
山の通人は、少しばかりテレていましたが、この席に、道庵先生が居合わせなかったことは仕合せでありました。道庵先生でも居合わそうものなら、忽《たちま》ち御自慢の本草学を振り廻して、いっぱしの科学者気取りで、ブリキのようなメスをガチャつかせて、山の通人に食ってかかったに相違ありません。
山の通人は、暫《しばら》くテレていましたが、そのテレ隠しのように、お雪の方へ向い、
「あなたは、どちらから、おいでになりましたね?」
と尋ねましたから、お雪は正直に、
「甲州の、上野原でございます」
と答えました。
「ははあ、上野原ですか」
「左様でございます」
お雪がこの場合、英語を知らなかったのも幸いで、もし英語の少しでもカジっていて、ハイランドでございます……なんぞとしゃれようものなら、またこの通人からお小言《こごと》を食ったのでしょうが、ドコまでも素直なお雪は、通人をおこらせるだけの返答を与えませんでした。
「御商売は何ですか、お家は……?」
と尋ねられた時も、お雪は神妙に、
「上野原で、月見寺とお聞きになれば、すぐわかります」
もし、この場合、お雪ちゃんが女学校出のお茶ッピーで、実家が高利貸でもしていて、「わたしの家はアイスクリームよ」とでも言おうものなら、この通人は真顔になって、「それはお菓子い御商売です」としゃれたかも知れません。
こういう通人の入り込むこともまた、山の炉辺の一興でありましょう。
九
その翌日、お雪は柳の間に籠《こも》って、いつになく冴《さ》えない色をして、机に向って筆を執っている。
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「弁信さん――
あたし、きょうもまた、ひとりで、無名沼《ななしぬま》まで行って来たのよ。
四方の峰から、雪が一日一日に、谷に向って強い力で圧《お》してくる中を、毎日、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》として散歩にであるく、わたしをのんきだとは思わない……?
その実、沼まで行く道だって大抵じゃないのよ。けれども、天気さえよければ、毎日一度は、あの沼まで行って見ないと気が済まないの。それも、人にことわると留めますから、わたし一人で、ないしょで行きます。
以前にも申し上げました通り、この沼は、わたしを引きつける力が有り過ぎます。
あの事件があって以来、少しの間は遠ざかっておりましたけれど、どうしても引きつけられてしまいます。怖《こわ》いという沼ではありませんもの……ほんとうは怖い沼かも知れませんが、怖いものほどかえって、人を引きつけるのではありますまいか。
わたしは毎日毎日、あの沼へ引きつけられて参ります。そうして離れ小岩の、絹糸のような藻のあるところ、御存じでしょう、最初にあたしが浅吉さんという人の死骸を見たところ、後にあのいやなおばさんが溺《おぼ》れて死んだというところ。知らず識《し》らず、わたしはあの岩の上へ立たせられてしまうのです……
それで、わたしはいい気になって、あの岩の上で、藻の中をかき分けるようにして、何を見ているのでしょう。自分の姿を、水鏡にしているのですから、ほんとに自分ながら、気が知れないことだと思います。
きょうも……その通りにして、わたくしはあの離れ岩のところに立って、水鏡をうつしながら、万葉集の歌と思い合わせて、自分の髪の毛を腕で巻いたり、指先でひねったりして、ひとり楽しんでおりました……
弁信さん――
わたしは、そちらにいた時のように、銀杏返《いちょうがえ》しや、島田に髪を結ってはいないのですよ。グルグル巻きにしたり、お下げにしたり、洗い髪のままでいたりするんですけれど、人のつ
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