、石油を田にまいて、その絶滅を企てたけれども、文次郎だけは石油をまかなかったそうです。それだのに収穫の時になって見ると、石油をまいた多くの田より、まかなかった文次郎の田の収穫が遥《はる》かに勝《まさ》っていたということです。
また、ある年のこと、米を作るのに追われて、麦を乾かさないで納屋《なや》へしまい込んでしまったが、文次郎の麦には虫が入らなかったが、同じように麦をしまい込んだ他の百姓は、みんな虫に食われてしまったということであります。
これはなんでもないことです。ただ作物を人として扱うのと、物として扱うだけの相違であります。石油を注ぐことの代りに、愛情を注ぐだけの相違であります。日に当てなくとも、温かい心を当てていただけの相違なのに過ぎません。
そう言って、老農は、植林も農業も、地味、種苗、耕作は第二、第三で、作物をわが子として愛するの心、これよりほかによき林をつくり、よき作物をつくる方法はないものだということを、懇々と説明して帰りました。
つまり、この老農は、農政学も、経済学も教えない第一義を、与八を例に取って説明をして帰りましたのです。
徳川の中期以後、日本には多くの平民宗教が起りました。
法然《ほうねん》、親鸞《しんらん》、日蓮といったように、法燈赫々《ほうとうかくかく》、旗鼓堂々《きこどうどう》たる大流でなく、草莽《そうもう》の間《かん》、田夫野人の中、或いはささやかなるいなかの神社の片隅などから生れて、誤解と、迫害との間に、驚くべき宗教の真生命をつかみ、またたくまに二百万三百万の信徒を作り、なお侮るべからざる勢いで根を張り、上下に浸漸《しんぜん》して行くものがあります。
眇《びょう》たる田舎《いなか》の神主によってはじめられた、備前岡山の黒住教もその一つであります。
たれも相手にする者のなかった、おみき婆さんの天理教もその一つであります。
金光教の金光大陣も、丸山教の御開山も、ほとんど無学文盲の農夫でありました――与八のことは問題外ですが、万一、こんな行いがこうじて、与八宗がかつぎ上げられるようなことにでもなれば、それは与八の不幸であります。
四
根岸の、お行《ぎょう》の松《まつ》の、神尾主膳の新ばけもの屋敷も、このごろは景気づいてきました。
それは、七兵衛が、例の鎧櫃《よろいびつ》に蓄《たくわ》えた古金銀
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