年は、無言でただ、申しわけのない顔だけをして、一心に働いている。
「金椎君、何かやられたかい、こいつに……?」
白雲はこう言ってみたけれど、金椎の耳には、それが用をなさないと気がついて、例の料理法の憲法の下へ、有合せの筆を取って、
「洋夷侵入、白雲万里」
と書きました。洋夷侵入はわかっているが、白雲万里が何の意味だかわからない。
駒井甚三郎も、この時、室内に入り来《きた》って、被害の実況をよく調査する。
結局、ただ食い荒し、飲み荒しただけで、ほかにはなんらの盗難もないということ。
ただ、秘蔵しっぱなしで、誰も手をつけなかったキュラソーが、一瓶なくなっているが、これとても闖入者《ちんにゅうしゃ》が私したのではない――私したのはわかっているが、それを持ち出してどうのこうのというのではなく、ただ飲んでしまって、いい心持になったのだということがわかり、つまり、あいつは、ただ食に迫ってこの家へ闖入し、飢えが満たされてから、あちらへ戸惑いをして行ったものに過ぎまい、という想像が話題になってみると、白雲も、あまり手きびしくとっちめたのが、むしろかわいそうにもなりました。
しかし、毛唐《けとう》は毛唐に違いない。あんな奴が、どうして一人だけこんなところへ流れ込んだのだろうという疑問は、誰の胸にも浮ぶ。
その時、隣室で、うーんとうなり出したのは、問題の男が息を吹き返したものでしょう。
十七
晩餐の食堂の開かれようとする前、駒井甚三郎と、田山白雲と、例のマドロス氏とが卓を囲んで会話をはじめました。
ところが、まどろこ[#「まどろこ」に傍点]しいことには、駒井の英語は、耳も、口も、目ほどにはゆかないものですから、マドロス氏との会話に、非常に骨が折れるのに、またマドロス氏の言葉が、英語が土台にはなっているが、なまりが非常に多いと来ているから、断線したり、わからないなりでしまったり、要領を得たような得ないような、すこぶる珍妙な会話でありましたが、しかし、この骨の折れる珍妙な会話が、駒井と、白雲とを、興に導くことは非常なものでした。
とにかく、そのしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]な会話を綜合してみると、このマドロス氏は、オランダで生れて英国で育ち、マドロスとして、ほとんど沿海の諸国を渡り歩いているうちに、その言語が英語を主として、それら諸国の異分
前へ
次へ
全126ページ中90ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング