はずはありますまい。
 金椎《キンツイ》がいるにしても、あれは、よし眼がさめていたとて、声では驚かされるものではない。
 娘にとっては、かなり危急な場合ではあるが、万事、人間のすることはそう手っ取り早くゆくものではない。猫ですらが、鼠をとった時は、一通りその功名を誇ってから後に食いにかかる。仮りにこのウスノロ氏が、思い設けぬ御馳走にありついたとしたところで、食の後には酒、酒の後には若い女と、こう順序があまりトントン拍子に運び過ぎてみると、なんだか自分ながら、果報のほどに恐ろしくもなるだろう。
 まして、これは最初から、兇暴な野心を微塵《みじん》も持って来たのではない。かりそめの漂浪者であってみれば、その咄嗟《とっさ》の間に、兇暴性を充分働かせるだけの器量があるとも思えない。
 要するにウスノロ氏は、ウスノロ氏だけのことしかしでかし得ないものだろうから、こういう場合に処するには、また処するだけの道があったろうと思われる。落着いてその道を講ずる余裕を失って、狼狽《ろうばい》してことを乱すと、かえって相手の兇暴性をそそり、敵に乗ぜらるるの結果を生むかも知れない。
 恐怖が、この娘を狼狽させたが、狼狽から、いよいよ恐怖がわいて来た。
「行っておしまい、誰か来て下さい――」
 二度《ふたたび》大声をあげると、娘は腰から下にかけていた毛布をとって、そのまま力を極めて大の男に投げつけたものですから、大の男がまた大あわてにあわてて、その毛布を取除こうとして、かえって深くかぶり、一時は非常に狼狽したが、やがてそれを取払うと、娘が、
「誰か来て下さい――」
 四たび叫びを立てたものですから、大の男が堪《たま》らなくなって、その口をおさえました。口をおさえるにはまず右の腕をのばして、軽々と自分の胸のところまで引きつけて、そこで口をおさえると、娘が、両足をジタバタとさせてもがき[#「もがき」に傍点]ました。
 こうなった時に、ウスノロ氏に、はじめて本能的の兇暴性がグングンと芽をのばしたように、
「あれ誰か来て――」
 その声を、今度は鬚面《ひげづら》でおさえてしまいました。
 大の男はそこで、娘の顔に向って、メチャメチャに接吻《せっぷん》を浴せかけようとする。娘はそうはさせまいと争い且つ叫ぶ。

         十六

 しかし、人生は、そう無限に闖入者《ちんにゅうしゃ》にのみ兇暴性をた
前へ 次へ
全126ページ中85ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング