辺に、そんなことがありましたか?」
「ええ、初めの方に、そんなことがあったようです……」
「さきほども聞いていますと、このお雪ちゃんが、ツガザクラの下を通ったとか、通らなかったとかいって、小言《こごと》をいっておいでのようでしたが、お雪ちゃんの文章は、たいてい一度は、わたしが見て上げますが、そんなことは書きはしなかったようですよ、よく読み直してごらんなさい」
「いや、わたしも、ちょっと眼に触れたままですから……」
「かりにも学者として、左様な粗末な、不親切な、見方をなさってはいけません。小説としても馬琴ほどの作者になれば、室町御所に虎を出そうとも、利根川の岸に芳流閣を築こうと、八丈島で馬に乗ろうと、安房《あわ》の国で鯉をつろうとも、皆それだけの頭と、働きを以てやるのですから、あなた方が、一方向きの知識だけでかれこれいうのは、僭越というものです」
 池田良斎は穏かに、この博識ぶった一方向きの山の通人をいましめて、それをしおに立ち上り、浴室へ行くと、一座の者が、われもわれもとあとを続いて、炉辺に残れるはお雪ちゃんと、留守番の老爺《おやじ》と、薄っぺらな山の通人と、その連れの者だけでありました。
 山の通人は、少しばかりテレていましたが、この席に、道庵先生が居合わせなかったことは仕合せでありました。道庵先生でも居合わそうものなら、忽《たちま》ち御自慢の本草学を振り廻して、いっぱしの科学者気取りで、ブリキのようなメスをガチャつかせて、山の通人に食ってかかったに相違ありません。
 山の通人は、暫《しばら》くテレていましたが、そのテレ隠しのように、お雪の方へ向い、
「あなたは、どちらから、おいでになりましたね?」
と尋ねましたから、お雪は正直に、
「甲州の、上野原でございます」
と答えました。
「ははあ、上野原ですか」
「左様でございます」
 お雪がこの場合、英語を知らなかったのも幸いで、もし英語の少しでもカジっていて、ハイランドでございます……なんぞとしゃれようものなら、またこの通人からお小言《こごと》を食ったのでしょうが、ドコまでも素直なお雪は、通人をおこらせるだけの返答を与えませんでした。
「御商売は何ですか、お家は……?」
と尋ねられた時も、お雪は神妙に、
「上野原で、月見寺とお聞きになれば、すぐわかります」
 もし、この場合、お雪ちゃんが女学校出のお茶ッピーで、実家が
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