高利貸でもしていて、「わたしの家はアイスクリームよ」とでも言おうものなら、この通人は真顔になって、「それはお菓子い御商売です」としゃれたかも知れません。
こういう通人の入り込むこともまた、山の炉辺の一興でありましょう。
九
その翌日、お雪は柳の間に籠《こも》って、いつになく冴《さ》えない色をして、机に向って筆を執っている。
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「弁信さん――
あたし、きょうもまた、ひとりで、無名沼《ななしぬま》まで行って来たのよ。
四方の峰から、雪が一日一日に、谷に向って強い力で圧《お》してくる中を、毎日、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》として散歩にであるく、わたしをのんきだとは思わない……?
その実、沼まで行く道だって大抵じゃないのよ。けれども、天気さえよければ、毎日一度は、あの沼まで行って見ないと気が済まないの。それも、人にことわると留めますから、わたし一人で、ないしょで行きます。
以前にも申し上げました通り、この沼は、わたしを引きつける力が有り過ぎます。
あの事件があって以来、少しの間は遠ざかっておりましたけれど、どうしても引きつけられてしまいます。怖《こわ》いという沼ではありませんもの……ほんとうは怖い沼かも知れませんが、怖いものほどかえって、人を引きつけるのではありますまいか。
わたしは毎日毎日、あの沼へ引きつけられて参ります。そうして離れ小岩の、絹糸のような藻のあるところ、御存じでしょう、最初にあたしが浅吉さんという人の死骸を見たところ、後にあのいやなおばさんが溺《おぼ》れて死んだというところ。知らず識《し》らず、わたしはあの岩の上へ立たせられてしまうのです……
それで、わたしはいい気になって、あの岩の上で、藻の中をかき分けるようにして、何を見ているのでしょう。自分の姿を、水鏡にしているのですから、ほんとに自分ながら、気が知れないことだと思います。
きょうも……その通りにして、わたくしはあの離れ岩のところに立って、水鏡をうつしながら、万葉集の歌と思い合わせて、自分の髪の毛を腕で巻いたり、指先でひねったりして、ひとり楽しんでおりました……
弁信さん――
わたしは、そちらにいた時のように、銀杏返《いちょうがえ》しや、島田に髪を結ってはいないのですよ。グルグル巻きにしたり、お下げにしたり、洗い髪のままでいたりするんですけれど、人のつ
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