と》のようにいっていると、
「梅ちゃん、どれがいいの?」
お角から尋ねられたのを上《うわ》の空《そら》で、
「どれもこれもみんないいわ」
「いちばんいいのをお取り」
「いいえ、わたし、千代紙でたくさんなのよ」
「この嫗山姥《こもちやまうば》がいいだろう」
「まあ……」
お梅は仰天してしまいました。その五彩絢爛《ごさいけんらん》たる八重錦の羽子板の山の中で、いちばん優《すぐ》れて、いちばん大きい嫗山姥、まさか買って下さいともいえないが、買って下さるはずもないとお梅が仰天している間に、お角は番頭に交渉し、さっさとその大一番の嫗山姥を買取って、お梅に持たせたから、お梅がひとごとではないと思いました。
お角は相変らず奉納の趣向を考え、お梅は有頂天《うちょうてん》になって、駒形通りへ出ました。
お角が駒形堂の前へ来ると、ちょうどその船つきへ小舟が着いたところで、幾多の人がゾロゾロと河岸《かし》へ上りました。
そのなかに、お角の眼をひいたのは、図抜けて大きな人が、西洋の蝙蝠傘《こうもりがさ》をさして上って来たことで、蝙蝠傘の流行は、今ではさして珍しいことではないが、まあ、どちらかといえば非常なハイカラな、新し好みの人に多かったのを、これは実にバンカラな人が、その流行ものの傘をさして、のこのこと出て来たから、それで一層お角の目を惹《ひ》いたのでしょう。お角ばかりではない、誰でもみんな、そちらを眺めました。
この大男は誰あろう、足利《あしかが》の絵師、田山白雲でありました。しかも、これは房州戻りそうそうの、江戸の土を踏んだ初めての見参《げんざん》なのですが、さすがの白雲も、芸術家並みに頭の古いといわれるのを嫌がって、それでハイカラの傘を仕込んで来たと見るのは僻目《ひがめ》で、これは洲崎《すのさき》の駒井の許を立つ時に貰って来たのでしょう。それもハイカラのつもりで貰って来たのではなく、日のさす時は日除けになり、風の吹く時は風除けになり、雨の降る時は無論、結構な雨具に相違ない。その上折畳みが自由に利《き》くから、実用無類の意味で、駒井の物置から探し当てたものとも思われます。
とにかく、こうして蝙蝠傘《こうもりがさ》をさして、ゆらりと江戸の浅草の駒形堂の前の土を踏んだ白雲の恰好《かっこう》は、かなりの見物《みもの》でありました。それは、頭の上だけは例の大ハイカラ蝙蝠傘で新し味を見せているが、頭から下は以前といっこう変ったところがありません。六尺豊かの体格に、おそろしく長い大小を横たえて、旅の荷物を両掛けにして、草鞋《わらじ》脚絆《きゃはん》厳《いか》めしく、小山の揺《ゆる》ぎ出たように歩き出して来たものですから、新しい人だか、古い人だか、ちょっと見当がつかなくなりました。
しかし、当人はいっこう気取った様子もなく、のこのこと歩いて、やがてお角とすれすれの所まで来まして、さて、これから、江戸のいずれの方面に向って歩みを移そうかと、ちょっと思案の体《てい》に見えました。
「モシ、あの、ちょっと失礼でございますが……」
と、その異様な人物に、まず物をいいかけたのはお角でありました。
「あ、何ですか?」
と蝙蝠傘の主《ぬし》は、あわただしく下界を見下ろすように身をかがめて返事をしますと、
「つかぬことを承るようでございますが、あなた様は房州の方からおいでになりましたのですか?」
「あ、房州から来ましたよ」
白雲は、この女の姿を見下ろして、それがよくわかったなと言わぬばかりの顔色です。
「房州は洲崎からおいでになりましたのでしょう」
「ええ、洲崎から来ましたが、それが、どうしてわかります」
白雲は、自分の蝙蝠傘にそれが記してあるのではないかとさえ疑いましたが、黒張りの傘に、無論そんな文字はありません。
「あの洲崎は駒井能登守様のお仕事場からおいでになりましたね」
「ど、どうして、そのことまで、お前さんにわかりますな」
「ホ、ホ、ホ……」
とお角が笑いました。田山白雲は、いささかどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]して、
「お前さんは千里眼かい?」
「いいえ、あなた様の差しておいでになるお脇差が、ついこの間、駒井の殿様のお差料と同じ品でございますものですから」
「なるほど、これが……」
と言って田山白雲は、左の片手で差している脇差を撫で廻し、
「細かいところへ眼が着いたものだなあ、こりゃ駒井氏から貰った品に相違ござらぬ、絵を描いてやったそのお礼に、駒井がこの脇差を拙者にくれました……拙者ですか、拙者は足利の絵師、田山白雲というものです」
まもなくお角は、田山白雲を柳橋北の川長《かわちょう》へ連れて行って御馳走をしました。
お梅はそこで別れて、いいかげんの時分に迎えに来るといって宅へ帰りました。
白雲は少しも辞退せずに、お角の饗応《きょうおう》を受けて、よく飲み、よく食い、よく語りました。
房州で駒井甚三郎の厄介になっていたことを逐一《ちくいち》物語ると、お角も自分が上総《かずさ》へ出かけて行った途中の難船から、駒井の殿様の手で救われたこと、それ以前の甲州街道の小仏の関所のことまでも遡《さかのぼ》って、話がぴたりぴたりと合うものですから、お角も喜んでしまって、
「ねえ、先生、今日は観音様のお引合せで、大変よい方にお目にかかれて、こんな嬉しいことはございませんよ」
「拙者も御同様、御同様……」
「先生、これを御縁に、わたくしは一つお願いがございますのよ……」
「なんです、そのお願いというのは?」
「先生、わたしに一つ絵を描いていただきたいのですよ」
「絵描きに絵を描けというのは、水汲《みずくみ》に水を汲めというのと同じことです、何なりと御意《ぎょい》に従って描きましょう」
「ねえ、先生、額を一つ描いて頂けますまいか?」
「額? よろしい。神社仏閣へ奉納する額面ですか、それとも家の長押《なげし》へでも掛けて置こうというのですか」
「先生、ひとつ念入りにお願いしたいんですが。一世一代のつもりで――」
「一世一代――? なるほど」
「実は、先生、わたしは今日もそれを検分かたがた御参詣に参ったのですが、あの浅草の観音様へ納め物をしたいと、疾《と》うから心がけていたんでございますよ……そうして何にしたらよかろうか、さきほどまでいろいろ考えていたのですが、先生のお話を伺っているうちに、すっかり心がきまってしまいました」
「なるほど」
「観音様のお引合せのようなものですから、ぜひ先生にお願いして、器量一杯の額を描いていただいて、それを観音様へ納めようと、こう心をきめてしまいました。先生、もうお厭《いや》とおっしゃっても承知しませんよ」
「なるほど、なるほど。そういうわけなら、拙者も一番、器量一杯というのをやってみましょう……そこで註文はつまり、その額面には何を描いて上げたらいいのかね?」
「先生、納める以上は、今迄のものに負けないのを納めたいと思います」
「左様――あすこにはあれで、古法眼《こほうげん》もいれば、永徳《えいとく》もいるはず。容斎《ようさい》、嵩谷《すうこく》、雪旦《せったん》、文晁《ぶんちょう》、国芳《くによし》あたりまでが轡《くつわ》を並べているというわけだから、その間に挟まって、勝《まさ》るとも劣るところなき名乗りを揚げようというのは骨だ」
「だって、先生、できないということはありますまい」
「拙者には少々荷が勝ち過ぎているかも知れないが、拙者も同じ人間で、絵筆を握っている以上は、できないとはいわない」
「ああ嬉しい、その意気なら先生、大丈夫よ」
「ところで、画題は……何を描いて納めたいのだね、その図柄によって工夫もあるというものだ」
「先生、わたしの望みは少し変っていますのよ」
「うむ」
「わたしは、ひとつ、ぜひ、切支丹《きりしたん》の絵を描いていただいて、納めたいと思っているのでございます」
「え、切支丹だって?」
「わたしの一世一代が、切支丹奇術の大一座というので当ったんですから、それを縁として……」
「いけない」
と白雲が膠《にべ》なくいいました。
白雲から素気《すげ》なくいわれて、お角は急に興醒《きょうざ》め顔になり、
「なぜいけないんでしょう」
「切支丹の額を、観音様へ上げるという法があるか」
「切支丹の額を、観音様へ上げてはいけないのですか」
「それはいけない」
「どうしていけないのです」
白雲が太い線でグングンなすってしまうものだから、負けない気のお角が黙ってはいられないのです。
「どうしていけないたって、第一、観音様と切支丹は宗旨《しゅうし》が違う」
「いいえ、先生、そりゃ違いますよ。観音様は、どの宗旨でもみんな信仰をなさる仏様だっていうじゃありませんか」
「ところが、切支丹ばかりはいけない」
「観音様は、切支丹がお嫌いなんですか」
「嫌いだか、好きだか、そりゃ吾々にはわからないが、第一坊主が承知しない」
「和尚さんが?」
「左様――切支丹の額なんぞを持ち込もうものなら、観音の坊主が、頭から湯気を立てて怒るに相違ない」
「わかりませんね、そんな乱暴なことがあるもんですか。ごらんなさい、あそこの額のなかには、一《ひと》つ家《や》の鬼婆あや、天子様の御病気に取憑《とりつ》いた鵺《ぬえ》という怪鳥《けちょう》まであがっているじゃありませんか、それだのに、切支丹の神様がなぜいけないんでしょう?」
「まあ、そういう理窟は抜きにして、拙者の言うことをお聞きなさい、神社仏閣へ奉納する額面には、額面らしい題目があるものだ、あながち、切支丹でなければならんという法もあるまいではないか」
「ですけれども、わたしには、切支丹の女の神様が、子供を抱いているところの絵が気に入りました、わたしのところへ来たあちらの芸人が持っていたあれが――油絵具で、こてこてと描いてあるんですけれど、ほんとうに活《い》きているように描けてあります、あんなのを一つ、先生にお願いして納めたら、今までとは全く趣向が変っていますから、どんなに人目を惹《ひ》くか知れやしません」
「ふーむ」
そこで田山白雲が、もう争っても駄目と思ったのか、沈黙して考え込んでしまいました。
つまり頭の置きどころが違うのだ。この女の額面を上げようという意志は、なるべく趣向の変った、人目を奪うような意味で、旧来の額面を圧倒しようという負けず根性から出ているので、画面の題目や、絵の内容などには一切おかまいなしである。ここは争っても駄目だ。白雲は沈黙してしまいましたが、しかし物はわからないながら、この女の気性《きしょう》には、たしかに面白いところがあると思いましたから、
「よろしい、その切支丹をひとつ描きましょう」
と言いました。これが負けず嫌いのお角を喜ばせたこと一方《ひとかた》でなく、相手をいいこめて、自分の主張が通ったものでもあるように意気込んで、
「描いて下さる、まあ有難い、それで本望がかないました」
それから一層心をこめて白雲を款待《もてな》しました。白雲も久しぶりで江戸前の料理に逢い、泰然自若《たいぜんじじゃく》として御馳走を受けていましたが、今宵は、いつものように乱するに至らず、ひきつづいて駒井甚三郎の噂《うわさ》。駒井のために一枚の美人画を描いてやったが、それが、自分ながらよく出来たと思い、駒井も大へん気に入って、この脇差をくれたということ。それから、いいかげんのところで切上げる用心も忘れないでいると、お角が、
「ねえ先生、お差支えがなければ、わたしどもへおいで下さいませんか、二階が明いておりますから、いつまでおいで下さっても、文句をいうものはございません、そこで、どうか精一杯のお仕事をなすっていただきとうございます」
お角は背中の文身《ほりもの》を質においても、奉納の額に入れ上げる決心らしい。
七
田山白雲がお角の宅へ案内されて、二階のお銀様の居間であったところに納まると、お角はとりあえず、かなり大きな二つの額面を戸棚から出して、白雲の前に立てかけました。
この二つの額面は、この間中、ジプシー・ダンスをやっていた一座が持って
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