本来、こういう場合の万一に備えるために天から授けられた米友ではないか。それをさしおいて、道庵自身がまかり出て、米友の株を背負《せお》い込もうとしてもそうはゆかない。天は決して人に万能を授けるものではない。おのおのその職とするところの分外に出て業《わざ》をしようとすれば、必ず間違いがある。
 道庵先生ともあろうものが、ここで裸松のため、ほとんど、なぶり殺しの目に逢い出したのも、もとはといえば、自業自得《じごうじとく》。自業自得とはいいながら、その業《ごう》は酒がさせるわざです。ですからこれは、酒業自得《しゅごうじとく》というのが正しいでしょう。
 裸松は、道庵を突き飛ばしたり、引きずり廻したり、それをまた道庵は、すっかり負けない気になって、起き直っては、ひょろひょろしながら武者振りつくものですから、その恰好《かっこう》がおかしいといって裸松は、いい玩弄《おもちゃ》にして面白がっている。それでも玩弄にされているために、道庵は致命傷を免れているらしい。しかし、どちらにしてもこうして置けば、この際、仲裁に出て、わが道庵先生の危急を救おうとするほどの勇者が現われるはずはないから、道庵はみすみす弄《なぶ》り殺しになってしまう。
 江戸では飛ぶ鳥を飛ばした道庵ともあるべき身が、みすみす北国街道のはずれで、馬子風情の手にかかって一命を落すとは、なんぼう哀れなことではないか。
 いいかげん玩弄《おもちゃ》にして、もうヘトヘトになった道庵を、裸松は手近な井戸流しのところへ引きずって来ましたが、それでも、殺すまでの気はないと見えて、そこで道庵の頭から水を一つザブリと浴びせると、そこへ引き倒して、あり合わせた切石を取って、左様、目方が十四五貫もあろうというのを軽々と持って来て、俯伏《うつぶ》しに寝かした道庵の背中の上へ重し[#「重し」に傍点]にかけました。
 ここで気息奄々《きそくえんえん》たる道庵は動きが取れない。石の重し[#「重し」に傍点]をかけられて、首と両手と両足をもがくばかり。張子の虎のような、六蔵の亀のような形を、裸松はおかしがり、
「ザマあ見やがれ。おかげで暇つぶしをさせられた、さあ、今の三ぴん共、遠くは行くめえ……」
 そうしておいて帯をしめ直し、鉢巻を巻き直して、逃げた侍のあとを追いかけようとする。
 軽井沢の町では、鳴りをしずめて事のなりゆきを気遣《きづか》っているが、無論、たれひとり出て来ようとするものもない。
 時に重し[#「重し」に傍点]をかけられた道庵が、有らん限りの声を出して叫びました、
「べらぼう様……おれを亀の子にしやがったな、よくも道庵に重し[#「重し」に傍点]をかけて亀の子にしやがったな、手も出さず、頭も出さず、尾も出さず、身を縮めたる亀は万年……と歌にあるのを、それではいけねえから手も出しつ、頭も出しつ、尾も出しつ、身を伸ばしたる亀は万年……とよみ直した奴がある、おれをどうしようというんだ、伸ばしたらいいのか、縮んだらいいのか……ア痛、ア痛……」
 道庵は有らん限りの声でこういいながら、有らん限りの力ではねおきようとしたが、この時の力では、十四五貫の重し[#「重し」に傍点]をはね返す力がありません。
「ア、痛ッ」
 刎起《はねお》きようとすると、いよいよメリ込むばかりです。
「ア、痛ッ、骨が砕ける……重てえ、卸《おろ》せ、卸せ」
と苦しがって叫びました。
「ザマあ見やがれ」
 裸松は鉢巻をしめ直しながら、道庵の上へ載せた重し[#「重し」に傍点]の石へ片足を載せました。この足に力を入れれば道庵がギュウとつぶれる。
「米友……友様あ……」
 ここで初めて道庵が、助けの声をあげました。

         四

 時なるかな、宇治山田の米友は、峠の町から軽井沢の桝形《ますがた》の茶屋まで、真一文字に飛んで参りました。
「先生はどうした、おいらの道庵先生がこっちへ見えなかったかい……」
 ここに桝形の茶屋というのは、軽井沢の駅の上下の外《はず》れの両端に、桝形に石を築いた木戸があって、そこに数軒の茶屋が並んでいる。追分節の歌の文句の一つにも、
[#ここから2字下げ]
送りましょかい
送られましょか
せめて桝形の茶屋までも
[#ここで字下げ終わり]
とあるのがそれです。
「え、先生、あのお医者さんの、あなたがそのお連れさんでしたか。これはどうも、今お迎えに出かけましたところで……それでお気の毒ですが、時の災難と思召《おぼしめ》して下さいまし、まことにハヤ、なんとも……」
 木戸番と、宿から迎えに出た男衆とが、米友を見かけて、まずお見舞と、申しわけをするような口ぶりが、どうも合点《がてん》がゆきません。
「時の災難だって……?」
「まことにどうも……」
「おいらの先生は来たか、来ねえか、それを聞いてるんだぜ」
「それが、どうも大変な事になっちまいましてね」
「何、何が大変だい――」
 米友が思わず意気込みました。
「だからお留め申したんですけれども、お聞入れがないもんだから、仕方がございません」
 宿の男衆が申しわけばかり先にして、事実をいわないものだから、米友がいよいよ急《せ》き込みました。
「おいらは申しわけを聞いてるんじゃねえぜ、先生がこっちへ来たか、来ねえか、それを聞いてるんだぜ、来なけりゃ来ねえように、こっちにも了簡《りょうけん》があるんだからな」
「それがまことにどうもはや……」
「来たのか、来ねえのか。おいらの先生は下谷の長者町の道庵といって、酔っぱらいで有名なお医者さんだ、その先生がこっちへ来たか、来ねえか、それを聞かしてもらいてえんだぜ」
「へえ、おいでになりました、たしかにおいでになりました」
「そうか、それでおいらも安心した、そうして先生は、お前の家へ泊っているのかい?」
「へえ、手前共へお着きになりました、それからが大変なんでございます、まことに申しわけがございませんが……」
「お前のところへ泊って、それからどうしたんだい……何が大変なんだ」
 米友は事態の穏かでないことを察して、地団駄《じだんだ》を踏みました。何か変った事が出来たに相違ない。先生としては、世話が焼けた話だが、自分としては、職務に対して相済まないと、米友の胸が騒ぎ出しました。
「早く言ってくんねえな、おいらの大切な先生だ、何か間違いがあった日にゃ、おいらが済まねえ」
 米友はまるい目を烈しく廻転させますと、木戸番も、宿の男も、いよいよ恐縮して、
「まことにはや、飛んだ御災難で……先生が、お留め申すのもお聞入れないもんだから、つい悪い奴につかまってしまいなすって……」
「ナニ、おいらの先生が悪い奴につかまったって……? 冗談《じょうだん》じゃねえ、その悪い奴というのは何者だい、胡麻《ごま》の蠅か、泥棒か、それとも街道荒しの浪人者か。それがどうしたい、悪い奴につかまった? おいらの先生が、それからどうしたんだい?」
「ただいま、ひどい目にあっておいでなさいます……」
「何……? ただいまひどい目にあっておいでなさいますだって? ばかにしてやがら、ひどい目にあっておいでなさいますなら、ナゼ助けておやり申さねえのだ」
「それがどうも……」
 米友は、木戸番と、男衆を突き倒して、疾風の如く軽井沢の町へ駈け込みました。
「やい、やい、軽井沢にゃあ、宿役も、問屋も無《ね》えのかい、人がヒドイ目にあっているのを、助けるという奴がいねえのかい。冗談じゃねえ、おいらの先生をヒドイ目にあわせようという奴は、どこにいるんだ、やい」
 米友がこう叫んで歯がみをしながら、軽井沢の町の真中を走《は》せ通りました。
 またいけない! とその声を聞いた町の者が、再び顫《ふる》え上りました。あのお医者さんの連れというのが来たな、いいところへといいたいが、ほんとうに悪いところへ来た。一人でたくさんなのに、また一人ヒドイ目に逢いたがって来た。裸の松の怖るべきことを知らないで、相手になりたがって来た。いったい、気が利《き》かないじゃないか。桝形《ますがた》の茶屋の番人は何をしている。あそこで食いとめて、こちらへ入れないようにしたらよかりそうなものじゃないか。
 入って来た以上は、仕方がない――
 その時です。歯がみをして、軽井沢の町へ怒鳴り込んだ宇治山田の米友は、ふと足もとにころがる一つの提灯《ちょうちん》を見て、まず穏かでないと思いました。
 その提灯は梅鉢の紋、それがいわゆる菅公以来の加賀様の紋であって、その下に「御用」の二字。
 ああ、なるほど、わが道庵先生は、この加賀様なるものの手先にとっつかまって、難題を起しているのだなと、早くも感づきました。相手が百万石の加賀守では、駅の者も手出しができないで、その亡状《ぼうじょう》に任せているのだなと米友が気取《けど》ると、またも歯をギリギリとかみ鳴らしました。
 こういう場合の米友には、義憤と、反抗とがわいて、相手が強ければ強いほど、ふるい立つのを例とする。
 てっきり、これは百万石の加賀守のお供先が、何かの行違いで、わが道庵先生をつかまえて、暴圧を加えているのだな、とこう感づきました。それで彼は、この提灯の梅鉢の紋に向って、反抗の心が潮《うしお》の如くわき出したのです。
 しかし、これは少なくともこの際、米友の推察は立入り過ぎていました。邪推とはいわないけれども、筋道の考え方が生一本《きいっぽん》に過ぎていました。
 いわゆる百万石、加賀様の御威勢は、この街道に於て、そんな圧制なものではない。むしろ、その寛大と、鷹揚《おうよう》と、自然、金銀の切れ離れのよい大大名ぶりは、この街道筋の上下を潤《うるお》して、中仙道、一名加賀様街道といわれたほどに人気を占めていました。ついでにお気の毒ながら、その時分の下郎共の口の端《は》にのぼった悪《にく》まれ唄を紹介すると、
[#ここから2字下げ]
人の悪いのは鍋島薩摩、暮六ツ泊りの七ツ立ち
[#ここで字下げ終わり]
というのがその一つ。
[#ここから2字下げ]
お国は大和の郡山《こおりやま》、お高は十と五万石、茶代がたった二百文
[#ここで字下げ終わり]
というのもその一つ。
[#ここから2字下げ]
銭は内藤|豊後守《ぶんごのかみ》、袖からぼろが下り藤
[#ここで字下げ終わり]
というのもその一つ。
 その他、参覲交代《さんきんこうたい》の大名という大名で、この下郎共の口の端にかかって完膚《かんぷ》のあるのはないが、百万石、加賀様だけは別扱いになって、さのみ悪評が残らない――
 だから、宇治山田の米友が、一途《いちず》に加賀守の横暴を憤《いきどお》り出したのは、筋違いでした。
 けれども、唇がワナワナと慄《ふる》えて、杖槍を握る手と腕が、ムズムズと鳴り出したのは、どのみち、相手が相手だから……という武者振いの類《たぐい》です。
 驀進《まっしぐら》に――但し、跛足《びっこ》を引いて、夕暮の軽井沢の町を、怒髪竹の皮の笠を突いて馳《は》せて行くと、
「友様……米友様……」
と助けを呼ぶの声。意外にも程遠からぬ路傍で起りました。
 見れば雲つくばかりの無頼漢。遠目で見てさえも、加賀様の御同勢とは見えません。

         五

「お、おいらの先生を、ど、どうしようというんだ?」
 米友はまず振別《ふりわけ》の荷物を地上へ投げ出しました。
 荷物を地上へ置くのと、その手にした杖槍を取り直したのと、どちらが早かったかわかりません。
 その独流の杖槍――穂のすげてない――は電光の如く、裸松のいずれの部分を突いたかわからないが、大の男の裸松が、物凄《ものすご》い声を出して後ろへひっくり返りました。
「先生、怪我はなかったか?」
 米友は早くも、道庵の背中の上の切石をはね飛ばして、それを介抱をしようとすると、道庵が桔槹《はねつるべ》のように飛び上りました。
「占《し》めた! もう占めたもんだ」
 飛び上って二三度体操をしましたから、それで米友も安心しました。
 それはそれで安心したが、安心のならないのは、ちょうどその時分、いったん後ろへひっくり返った裸松が、怖るべき勢いで起き直っ
前へ 次へ
全36ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング