ない時は、二人の心が鎧櫃をグルグル廻っている。
 どこへ行ったろう――その翌日も、とうとう七兵衛は帰って来ない。夕方も、夜も。
 主膳とお絹は、またもいい合わしたように、二人が前後から鎧櫃を囲んで、ついにその錠前へ手をかけてみました。手をかけてみたところで、それを壊そうとか、こじようとかするほどの決心ではなく、ただ錠前の締り工合をちょっと触ってみたくらいのところでありますが、その締り工合はまた厳として、許さぬ関《せき》の権威を守っているから、それ以上は手を引くよりほかはない。
 ばかにしている――三日目の夕方まで七兵衛が帰らないので、神尾の堪忍袋《かんにんぶくろ》が綻《ほころ》びかけました。
 この堪忍袋。誰も堪忍袋を要求した者はないはずだが、それでも神尾自身になってみると、相当に気をつかっていたらしい。三日まで七兵衛の音も沙汰もなかったその夕べ、神尾がいらいらしているところへ、お絹が酒を薦《すす》めました。
 酒を薦めて悪いことは知って知り抜いて、それを取り上げているお絹が、たまには、といって一杯の酒を薦めたのが、神尾のこの鬱陶《うっとう》しい気分を猛烈にする。
 一杯――二杯。
 そこでお絹が、七兵衛の奴の、気障《きざ》で、皮肉で、憎いことを説き立てる。つまりああして大金を放り出して、乾ききっている吾々の前へ出しておくのは、吾々のよわみを知って、とても手出しができまいとたかを括《くく》っての仕事だ、金銭は欲しいとはいわないが、その仕向け方が癪《しゃく》じゃありませんか……というようなことを煽《あお》り立てる。
 久しぶりの酒が利《き》いて――無論、まだ酒乱の兆《きざ》す程度には至らないし、またそこまで至らしめないように、そばで加減はしているが、神尾主膳が早くも別人の趣をなして不意に立ち上り、
「よし、目に物を見せてくれる」
 長押《なげし》にあった九尺柄の槍を取って、無二無三に、かの暗澹《あんたん》たる鎧櫃の座敷へ侵入しました。
 主膳が九尺柄の槍を取って、かの暗澹たる鎧櫃の間へ走り込んだのを、お絹は引留めようともせずに、手早く手燭《てしょく》を点《とも》して、その跡を追いかけました。
 槍を取って、件《くだん》の鎧櫃を暫く見詰めていた神尾主膳。
 お絹が差出した手燭の光が、神尾の心を野性的に勢いづけたようです。
「憎い奴、目に物見せてくれる」
 この見せつけがましい鎧櫃一個がこの際、骨を劈《つんざ》いてやりたいほどに憎らしくなる。
「エイ!」
といって、鎧櫃の前の塗板の柔らかそうなところへ勢い込んで槍を立てると、難なくブツリと入りました。
 それを引抜いて、また一槍、また一槍。ブツリブツリと槍を突き込み、突き滑らして後、神尾はホッと息をついて、槍の石突を取り直して、その穴をあけたところをコジて、次に、手をもってメリメリと引裂くと、穴は忽《たちま》ちに拡大する。そこへ突きつけたお絹の手燭の光に、燦爛《さんらん》として目を眩《くら》ますばかりなる金銀の光。
 神尾は槍を投げ捨てて、バラリバラリとその金銀を引出してはバラ撒《ま》き、掴《つか》み出しては投げ散らすものですから、暗澹たる座敷の中が、黄金白銀《こがねしろがね》の花。
 神尾は、燃え立つような眼付をして、手に任せては、金銀を掴み出して、四辺《あたり》一面にバラ撒く。
 一時《いっとき》、その光にクラクラと眩惑したお絹は、ついにその手燭を畳の上へさしおいて、両の手を以て、木の葉の舞う如く散乱する金銀を掻集《かきあつ》めにかかります。
 こうなると神尾主膳の野性が、酒ならぬものの勢いに煽《あお》られて、さながら、酒に魅せられた酒乱の時の本能が露出し、手に当る金銀のほか、包みのままで引出した封金をも、わざと荒らかに封を切って投げ出したものですから、その、燦爛たる光景はまた見物です――大にしては紀文なるものが、芳原《よしわら》で黄金の節分をやった時のように。小にしては梅忠なるものが、依託金の包みを切って阿波の大尽なるものを驚かした時のように――放蕩児《ほうとうじ》にとっては、人の珍重がるものを粗末に扱うことに、相当の興味を覚えるものらしい。神尾主膳も取っては撒き、取っては散らしているうちに、ついに撒き散らし、投げ散らすことに興味が加速度を加えたらしく、狂暴の程度で働き出している。
 お絹もまた、拾えば拾うほどに、集めれば集めるほどに、そのこと自身に興味を煽られてしまっている。ここには、紀文の時のように、吾勝ちに争う幇間《たいこ》末社《まっしゃ》の類《たぐい》もなし、梅忠の時のように、先以《まずもっ》て後日の祟《たた》りというものもないらしい。あったところでそれは相手が違うし、第一、自分が直接の責任者ではなく、いわば神尾を煽《おだて》て骨を折らせ、自分は濡手で掴み取りをしているだけの立場なのだから、お絹としては大放心で、吾を忘れるのも無理があるまい。
 もうこれ以上は――神尾も手が届かなくなった。鎧櫃の底はまだ深い。向うも遠いけれども、コジあけた穴の大きさに限りがあるものだから、そこで手の届く限りは掴み出してしまって、再び穴をくりひろげるか、そうでなければ、櫃を打壊すか、ひっくり返すかしないことには、取り出せなくなったので、神尾が手を休めて見返ると、お絹が拾い集めてはいるが、お絹一人の手では間に合い兼ねて、四辺《あたり》は燦爛《さんらん》たる黄金白銀《こがねしろがね》の落葉の秋の景色でしたから、この目覚しさに、自分のしたことながら、自分のしたことに目を覚して、その夥《おびただ》しい金銀の落葉に眩惑し、現心《うつつごころ》で、その中の一枚を拾い取って見ると、疑う方なき正徳判の真物《ほんもの》……
 その時に廊下で、咳払《せきばら》いがして、人の足音が聞え出す。七兵衛が帰って来たのです。
 その咳払いと、足の音を聞くと、吾を忘れていたお絹が、はっと胆を冷しました。
「あ」
 一方を見返ると、自分たちが開け放しておいたところに、七兵衛がヌッと立ってこっちの狼藉《ろうぜき》を見ながら、ニヤリニヤリと笑っています。
「七兵衛か」
と神尾主膳も槍を手にして、帰って来た七兵衛を見返りながら、てれ[#「てれ」に傍点]隠しの苦笑いです。ただ隠しきれないのは、室内に燦爛たる黄金白銀の落葉の光。
「殿様、ごじょうだんをあそばしちゃいけません、御入用ならば、そのままそっくりお持ち下さればいいに……」
 七兵衛は、いつまでも障子の外から、こっちを覗《のぞ》いてニタリニタリと笑っているばかり。
「七兵衛、天下の財宝を粗末にするな」
と主膳がいう。
 主膳も、多少の酒と、黄金の光に、一時《いっとき》眩惑されて兇暴性を発揮してみたけれど、今宵の酒量は乱に至るほど進んではいず、黄金性の魅惑は、かりにも所有主と名のつく者が来てみれば、幻滅を感じないということもなく、こうなってみると、手にさげている槍までが手持無沙汰で、引込みのつかない形です。
 お絹もまた、室内に燦爛たる黄金の光をいまさら、袖で隠すわけにもゆかず、拾い集めて当人に還付するのも変なもの、ほとんど立場を失った形で、てれきっている。
 第一、所有主そのものが、怒りもしなければ、怒鳴りもせず、外でニタニタ笑っているばかりですから、空気の緊張を欠くこと夥しい。妙な三悚《さんすく》みが出来上って、この室内のてれ[#「てれ」に傍点]加減がどこで落着くか際限なく見えた時、気を利《き》かしたつもりか、お絹の持って来て畳の上へ置いた手燭の蝋燭《ろうそく》がフッと消えました。これは蝋燭が特に気を利かして、この場のてれ[#「てれ」に傍点]加減を救ったというわけでもなく、風が吹き込んで吹き消したのでもなく、慾に目の眩《くら》んだ人間のために顧みられなかったものだから、以前は、相当に寿命のあった蝋燭《ろうそく》も、この際あえなき最期《さいご》を遂げたのであります。
「七兵衛さん、悪い気でしたのじゃないから堪忍しておくれ、殿様の御気性で、ホンの一時の座興なんだから。元はといえば、お前があんまり、ひけら[#「ひけら」に傍点]かすから悪いのさ」
 暗くなって、初めてお絹が白々しい申しわけをする。
「なあにようござんすとも、こうしてお世話になっている以上は、何事も共有といったようなものでござんすからね、御入用だけお使い下さいまし、御自由に」
 先夜とは打って変った白々しい気前ぶりを見せた言い方。
 暗い間のバツを利用して、お絹は神尾主膳の手を取って、この座敷を連れ出してしまいました。あとに残された七兵衛、ドッカと胡坐《あぐら》をかいて、ニタニタ笑いがやまない。
 先方は見えないつもり、こちらは暗いところでよく物が見える。神尾の手を引いて、ソッと抜け出したお絹という女の物ごし、散乱した金銀に心を残して出て行く足どり――あの足どりでは、足の裏へ小判の二三枚はくっつけて出たかも知れない。悪い時に帰ったものだ。

 しかし、これが縁になって、その翌日、七兵衛は表向いて神尾主膳に紹介されました。
 うちあけた話になってみると、おたがいに、相当に頼母《たのも》しいところがある。頼母しいところというのは、世間並みにいえば、あんまり頼母しくないところだが、七兵衛は神尾の急を救うために、無条件で鎧櫃の中を融通する約束。今は、先夜お絹にしたような見せつけぶりでもなく、勿体《もったい》もつけず、サラリと投げ出したのは、神尾にとっても、お絹にとっても、頼母しいことこの上なし。
 ところで一つ、七兵衛の方からも、交換条件が神尾に向って提出される。これはお絹の身体を抵当に、なんぞという嫌味なものではなく、七兵衛は七兵衛としての一つの大望《たいもう》がありました。
 その翌日、七兵衛は神尾主膳に向って、自分は盗人《ぬすっと》だということを、大胆に打明けてしまいました。
 主膳も、それを聞いて存外驚かず、大方そんなことだろうという面付《かおつき》。
 盗人ではあるが、自分は質《たち》の悪い盗人ではないと言いだすと、主膳が、世間に質の良い盗人というものがあるのか、と変な面をしました。
 ありますとも……盗人の社会へ入って見れば、質《たち》のいいのも悪いのも、気取ったのも気取らないのも、渋味《じみ》なのも華美《はで》なのも、大きいのも小さいのも、千差万別の種類があるうち、自分は質の良い方の盗人だというと、神尾が笑って、自分で質が良いというのだから、間違いはなかろうと冷かす。
 そこで、七兵衛がいうには、自分の盗人ぶりの質《たち》の良いというのは、盗んで人を泣かすような金は盗まず、盗んだ金を自分の道楽三昧《どうらくざんまい》には使わず……ことに自分は盗みをするそのことに趣味を感じているのだから、盗んだあとの金銀財宝そのものには、あまり執着を感じていない。
 たとえば、ここにこうして古金銀から、今時の贋金《にせがね》まで一通り盗み並べてみたが、これもホンの見本調べをやってみただけのもので、もうそれだけの知識を備えたから、綺麗《きれい》さっぱりとあなたに差上げてしまっても惜しいとは思わない――つまり、盗むことの興味が自分の生命で、盗み出した財物は、楽しみをした滓《かす》だから何の惜気もない――といって神尾主膳を煙《けむ》に捲きました。
 しかし、また七兵衛は真顔になって、自分とても、ほかに何か相当の天分と、仕事をもって生れて来たのだろう、幼少の教育がよくて、己《おの》れの天分を順当に発達さえさせてくれたら、あながち盗人《ぬすっと》にならずとも、他に出世の道があったに相違ないという述懐を漏らします。
「そりゃそうだ、盗人をするだけの才能と、苦心を、他に利用すれば立派なものになる」
と神尾もまじめに同情しました。
 しかし、今となっては仕方がない。自分はこうして盗むことに唯一の趣味を感じていると、盗み難いものほど、盗んでみたいという気になる。
 そこで、一つの大望がある。なんとこの大望を聞いては下さるまいか。
 何だい、その大望というのは。石川五右衛門がしたように、太閤の寝首でもかこうというのかい。
 いいえ
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