実際、白雲が知識の足らないために、芸術を理解することの妨げを痛感して、泥棒を捉まえて縄を綯《な》うよりも、モット緩慢な仕事を、この画面の前で始めたのは、事のそれほど、画面そのものが白雲の研究心を誘う力あるものと見なければならない。わかっても、わからなくても、この画には非凡な力があるものに違いない。
 偶然は時として大きな悪戯《いたずら》をするものですから、もし、かくまで白雲を苦心煩悶せしめる後の方の絵が、十三世紀から十四世紀へかけての西洋の宗教画であって、それが何かの機会《はずみ》で浮浪《さすらい》の旅役者の手に移り、海を越えて、この女興行師の手に渡って、珍しい絵看板同様の扱いを受けつつ、卓犖《たくらく》たる旅絵師の眼前に展開せられたものとしたら、その因縁《いんねん》はいよいよ奇妙といわねばならぬ。
 十三世紀から十四世紀の西欧の宗教画といえば、美術史の一ページを繙《ひもと》いたほどのものは、誰でも復興の幕を切って落したチマブエと、その大成者である大ジョットーを知らないものはない。当時にあっては、宗教画はすなわち美術の全部でありました。ジョットーは、そのいわゆるフレスコの大きなものを後
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