に睨《にら》めておりました。
 お角が、お梅と、男衆とを連れて、熱海へ旅立ったのは間もないことです。
 留守中の万事は抜かりなく整えておいて、別に若干の金を白雲のために供《そな》えて立ちましたが、その後で封を切って見ると、五十両あったので、さすがの白雲も、この女の気前のよいことに、ちょっと度胆を抜かれた形であります。そこで、その金は、そっくり故郷の足利にいる妻子に送り届けることにしておいて、またも例の額面と睨めっこです。
 油でない方の一方の額が、どう睨めてもわからない。時代がわからない。描き手がわからない。描かれている人物がわからない。ただわかるのは、線と色との調和と、それから描かれた人物の陰深にして凄惨《せいさん》な表情。そうして見ているうちに、温和があり、威厳がある半面の相。
 知られる限りの道釈のうちにも、英雄の間にも、この像に当嵌《あてはま》るべき人物を見出すことができない。世間には、わかってもわからなくても、どうでもいい事がある。ぜひともわかりたいことがある。どうしてもわからせねばならぬ事もある。すべてに於て極めて無頓着な田山白雲。時としては飢えに迫る妻子をすら忘れてしまう
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