の前後のことは知らず、中頃、司馬江漢あたりの筆に脱化された洋画の趣味も捨て難いものだと思いました。また最近に於て、外国の書物の挿画《さしえ》として見たり、また写真銅版等の複製によって覗《のぞ》いてみたりした洋画に、驚異の念を持たせられたことも一再ではありません。
「そうだ、西洋の絵の長所は形似《けいじ》だ、形を似せることに於ては、われわれはきざはし[#「きざはし」に傍点]しても及ばないかも知れない、この遠近、この人体、空気の色、日の光の陰影をまで、かくも精巧に現わすのは、絵というよりもこれは技術だ、形似が絵というもののすべてでない限り……」
そこで白雲の面《おもて》には悠然たる微笑が湧き、墨の一色を以て天地の生命を捉えるの芸術を、讃美礼拝するの念が起る。
それが、今、こうして本物の油絵を見ているうちにわからなくなる。
わからないのは、これによってあえて自信が崩れたわけではないが、これは今まで見た油絵とは少しく勝手が違う……なるほど、素人目《しろうとめ》で見て、これをこのままあの観音へ納額してみたらば、さだめて異彩を放つであろうと思うのも無理がない――こういった絵を納めてみたいと願
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