縁となって、これを知らなければならぬとの知識慾に駆《か》られたのが、そもそもの動機であります。
 何となれば、西洋の軍事科学の新知識に於ては、当代に人も許し、吾も信ずるところの身でありながら、その西洋の歴史を劃する宗教の出現について、ほとんど無知識であるのみならず、不具なる支那少年から、逆に知識を受けねばならぬことは、これ重大なる恥辱であると、駒井の知識慾が、そういうふうに刺戟を与えたから、彼は暫く、軍事科学の書物を抛擲《ほうてき》して、専《もっぱ》ら、キリスト教の書物を読むことになったのです。
 要するに信仰のためではなく、知識のために読み出しているのです。
 で、読み行くうちに、どの読書家もするように、要所要所へ線を引いておいて、それを座右に積み重ね、今やその要所を改めて摘録《てきろく》し、翻訳してノートにとどめている。
 さてまた、一冊をとりひろげて、その引線の部分を摘訳する。
[#ここから1字下げ]
「福音書ノ何《いづ》レノ部分ニモ耶蘇《やそ》ノ面貌ヲ記載シタルコトナシ。サレバ、後人、耶蘇ノ像ヲ描カントスルモノ、ソノ想像ノ自由ナルト共ニ、表現ノ苦心尋常ニアラズ。
或者ハ、耶蘇ノ面貌ヲ以テ、醜悪ニシテ、怖ルベキ勁烈《けいれつ》ノモノトナシ、或者ハ、温厳兼ネ備ヘタル秀麗ノ君子人トナス。
アンジェリコ、ミケランゼロ、レオナルドダビンチ、ラファエル及チシアン等ノ描ケル耶蘇ノ面貌ハ皆、荘厳《そうごん》ト優美トヲ兼ネタル秀麗ナル男性ノ典型トシテ描キタレドモ、独《ひと》リ十四世紀ノジョットーニサカノボレバ然《しか》ラズ。
人|一度《ひとたび》、アレナノ会堂ニ赴《おもむ》キテ、ジョットーノ描キタル、ユダノ口吻《くちづけ》スル耶蘇ノ面貌ヲ見タランモノハ、粛然トシテ恐レ、茲《ここ》ニ神人ナザレ村ノ青年ヲ見ルト共ニ、ジョットーノ偉才ニ襟ヲ正サザル無カルベシ。
ミケランゼロモ、ダビンチモ、耶蘇ノ有スル無限ノ悲愁ト、沈鬱トヲ写スコト、到底ジョットーノ比ニアラズ。
イハンヤ、ラファエルニオイテヲヤ……未ダカツテ……ジョットーヨリ純正偉大ナル宗教画家ハナシ。茲ニソノ伝記ノ概要ト、作品ノ面影《おもかげ》トヲ伝ヘン哉《かな》……」
[#ここで字下げ終わり]
 ここまで訳し来った駒井甚三郎は、ページを一つめくり[#「めくり」に傍点]ました。全く世の中は儘《まま》にならないもので、田山白雲はああして狂気のようになって、いろはからその知識を探り当てようともがいているのを、駒井甚三郎は何の予備もなく、何の苦労もなしに、かくして読み、且つ訳している。
 田山の帰ることが二三日おそければ、駒井はこの西洋宗教美術史の一端を、田山に話して聞かせたかも知れない。といって、そうなればまた、当然白雲はあの額面を見る機会を失ったのだから、駒井の説明も風馬牛に聞き流してしまったことだろう。「知る者は言わず、言う者は知らず」という皮肉をおたがいに別なところで無関心に経験し合っているの奇観を、おたがいに知らない。
 その時分、海の方に向ったこの研究室の窓を、外から押しあけようとするものがあるので、さすがの駒井も、その無作法に呆《あき》れました。
 金椎《キンツイ》でもなければ、この室を驚かす者はないはずのところを、それも外から窓を押破って入ろうとする気配は、穏かでないから、駒井も、厳然《きっと》、その方を眺めると、意外にも窓を押す手は白い手で、そして無理に押しあけて、外から面《かお》を現わしたのは、妙齢の美人でありました。
 髪を高島田に結《ゆ》った妙齢の美人は、窓から面だけを出して、駒井の方を向いて嫣乎《にっこ》と笑いました。駒井としても驚かないわけにはゆきません。
「お前は誰だ」
 駒井が窘《たしな》めるようにいい放っても、女はべつだん驚きもしないで、
「御存じのくせに。ほら、あの、鋸山の道でお目にかかったじゃありませんか」
「うむ」
「わかったでしょう。あなたは、あの時の美《い》い男ね」
「うむ」
「中へ入れて頂戴」
 駒井は、あの時の狂女だなと思いました。高島田に結って、明石の着物を着た凄いほどの美人。羅漢様の首を一つ後生大事に胸に抱いて、「お帰りには、わたしのところへ泊っていらっしゃいな」といった。
 それが、どうしてここへやって来たのだ。保田から洲崎《すのさき》まで、かなりの道程《みちのり》がある。ともかく、駒井もこのままでは捨てておけないから、椅子を立ち上って、
「ここはいけない、あっちへお廻りなさい」
「いいえ、あたしここから入りたいの」
「いけません、入るべきところから、入らなければなりません」
「いいえ、表には人がたくさんいるでしょう、犬もいるでしょう、ですからあたし、ここから入りたいの」
「表には誰もいやしませんから、あちらへお廻りなさい」
「いや、あたしここ
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