うどう》を見る……」
と口吟《くちずさ》みました。
十
鏡ヶ浦に雲が低く垂れて陰鬱《いんうつ》極まる日、駒井甚三郎は洲崎《すのさき》の試験所にあって、洋書をひろげて読み、読んではその要所要所を翻訳して、ノートに書き留め、読み返して沈吟しておりました。
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「フランソア・ザビエル師ノ曰《いは》ク、予ノ見ル所ヲ以テスレバ、善良ナル性質ヲ有スルコト日本人ノ如キハ、世界ノ国民ノウチ甚ダ稀ナリ。彼等ガ虚言ヲ吐キ、詐偽《さぎ》ヲ働クガ如キハ嘗《かつ》テ聞カザル所ニシテ、人ニ向ツテハ極メテ親切ナリ。且ツ、名誉ヲ重ンズルノ念強クシテ、時トシテハ殆ド名誉ノ奴隷タルガ如キ観アリ」
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こう書いてみて駒井は、果してこれが真実《ほんとう》だろうか、どうかと怪しみました。フランソア・ザビエル師は、天文年間、初めて日本へ渡って来た宣教師。ただ日本人のいいところだけ見て、悪いところを見なかったのだろう。それとも一遍のお世辞ではないか――さて黙して読むことまた少時《しばらく》。
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「日本人ハ武術ヲ修練スルノ国民ナリ。男子十二歳ニ至レバ総《すべ》テ剣法ヲ学ビ、夜間就眠スル時ノ外ハ剣ヲ脱スルトイフコトナシ。而シテ眠ル時ハコレヲ枕頭ニ安置ス。ソノ刀剣ノ利鋭ナルコト、コレヲ以テ欧羅巴《ヨーロッパ》ノ刀剣ヲ両断スルトモ疵痕《しこん》ヲ止《とど》ムルナシ。サレバ刀剣ノ装飾ニモ最モ入念ニシテ、刀架《とうか》ニ置キテ室内第一ノ装飾トナス」
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これは実際だ――と駒井甚三郎が書き終って、うなずきました。
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「勇気ノ盛ンナルコト、忍耐力ノ強キコト、感情ヲ抑制スルノ力ハ驚クベキモノアリ」
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これは考えものだ……ことに今日のような頽廃《たいはい》を極めた時代を、かえって諷誡《ふうかい》しているような文字とも思われるが、しかし、よく考えてみると、古来、日本武人の一面には、たしかにこの種の美徳が存在していた。今でもどこかに隠れてはいるだろう。
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「日本人ハ最モ復讐《ふくしう》ヲ好ミ、彼等ハ街上ヲ歩ミナガラモ、敵《かたき》ト目ザス者ニ逢フ時ハ、何気《なにげ》ナクコレニ近寄リ、矢庭ニ刀ヲ抜イテ之《これ》ヲ斬リ、而シテ徐《おもむ》ロニ刀ヲ鞘《さや》ニ納メテ、何事モ起ラザリシガ如ク平然トシテ歩ミ去ル……単ニ刀ノ切味ヲ試サンガ為ニ、試シ斬リヲ行フコト珍シカラズ」
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これもまた、たしかに日本人のうちの性癖の一つで、駒井自身も幾度かそれを実地に見聞いている。これは美徳とも、長所ともいえまいが、外国人が見たら、たしかに、日本国民性の一つの特色として驚異はするだろう、と駒井はようやく筆を進ませて、
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「日本ノ貴族ニハ不法ニシテ傲慢《ごうまん》ナル習慣アリ。足ヲ以テ平民ヲ蹴リテ怪シマズ。平民自身モマタ奴隷タルベクコノ世ニ生レ出デタルモノニシテ、人格ト権利ヲ没却セラレテモ、之ヲ甘ンジテ屈従スルモノノ如シ。惟《おも》フニ日本貴族ノコノ傲慢ナル風習ヲ改メシムルノ道ハ、耶蘇教《やそけう》ノ恩沢ヲコレニ蒙ラシムルノ外アルベカラズ」
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そこで、なるほど、外国人の眼から見た時は、階級制度の烈しい日本の国では、貴族と、平民との関係が、こうも見えるのかしら、これでは野蛮人扱いだ、と思いました。しかしこれは、西洋で十六世紀から十七世紀の間、日本では戦国時代から徳川の初期へかけて日本に渡来した、主として耶蘇教の宣教師の目に映った日本人の観察である、日本人自身では気のつかない適切な見方もあろうが、また思いきった我田引水もあるようだ――現に日本貴族の傲慢なる風習を改めしむるの道は、耶蘇の教えを以てするよりほかはない、と断言したところなど、日本に宗教なしと見縊《みくび》っていうのか、或いはまた事実この道を伝うるにあらざれば、人類救われずとの信念によって出でたる言葉か――駒井自身では動《やや》もすれば、そこに反感を引起し易《やす》い。
だが、耶蘇の教えが、偽善と驕慢を憎んで、愛と謙遜を教えるところに趣意の存することは、朧《おぼろ》げながらわかっている。
駒井甚三郎が今日読んでいるのは、その専門とするところの兵器、航海等の科学ではなく、宗教に関するところの書物であります。宗教というたとても、それはキリスト教に関するもののみで、いつぞやわざわざ番町の旧邸を訪ねて、一学を煩《わずら》わし、その文庫の中から選び齎《もたら》し帰ったものであります。今や、駒井甚三郎は、キリスト教を信じはじめたのではありません。また信じようと心がけているわけでもありません。
給仕の支那少年との偶然の会話が
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