えたのもございます、名物の二八|蕎麦《そば》ののびたのもございます、休んでおいでなさいませ」
道庵、いかに、ジタバタしても、もう動きが取れません。
よし、こうなる以上は、この茶屋へも話しておき、どこぞしかるべき宿へみこしを据えてから、人を走らせて米友を招くに如《し》かじ、と決心しました。その途端に、
「ねえ、旅のお先生、わたしどもへお泊りなさんし、玉屋でございます」
あだっぽい飯盛女が、早くも道庵の荷物に手をかけたものですから、道庵も鷹揚《おうよう》にうなずいて、その案内で桝形の木戸から、軽井沢の宿へ入り込んだものです。
「ははあ」
道庵は物珍しげに軽井沢の町を見廻して、頭上にけぶる、信濃なる浅間ヶ岳に立つ煙をながめ、
「ははあ、いよいよ信濃路かな。一茶の句に曰《いわ》く、信濃路や山が荷になる暑さかな……ところが今はもう暑くねえ」と嘯《うそぶ》きました。
時は、無論、山が荷になるほどの暑い時候ではなかったけれど、さりとてまだ、ゆきたけつもり[#「ゆきたけつもり」に傍点]て裾の寒さよ、とふるえ出すほどの時候でもありません。
幸いにして碓氷峠《うすいとうげ》は紅葉の盛りでありました。坂本の宿から峠の上まで、道庵は名にし負う碓氷の紅葉に照らされて、酔眼をいよいよ真赤にしてのぼって来ましたが、上野《こうずけ》と信濃の国境《くにざかい》は夢で越え、信濃路に入ってはじめて、浅間の秋に触れました。
ここに、便宜上、武州熊谷以来の旅程を示すと――
熊谷から深谷まで二里二十七丁。深谷から本庄まで二里二十五丁。本庄から新町へ二里。この間に武州と上州との境があって、新町から倉ヶ野へ一里半。倉ヶ野から高崎へ一里十九丁。
高崎は松平|右京亮《うきょうのすけ》、八万二千石の城下。それより坂鼻へ一里三十丁。坂鼻から安中《あんなか》へ三十丁下り。ここは坂倉伊予守、三万石の城下。安中から松井田へ二里十六丁。
松井田から坂本へ二里十五丁。こうして今や上州の坂本から二里三十四丁二十七間の丁場を越えて、信濃の国、軽井沢の宿に着いたというわけであります。
軽井沢へ来て、酔眼をみはって見ると、その風物のいとど著《いちじる》しいのに、道庵は眼をきょろつかせないわけにはゆきません。
空を見れば浅間ヶ岳が燃ゆる思いの煙をなびかせ、地を見れば三宿の情調が、いとど旅感をそそるに堪えている。七十八軒の本宿に、二十四軒の旅籠屋《はたごや》。紅白粉《べにおしろい》の飯盛女《めしもりおんな》に、みとれるようなあだっぽい[#「あだっぽい」に傍点]のがいる。なるほどこれでは、道中筋のお侍たちがブン流してお差控えを食うのも無理はないと、いい年をした道庵が、よけいなところへ同情をしながら歩きました。
道庵先生は玉屋の店の縁先へ腰をかけて足を取り、洗足《すすぎ》のお湯の中へ足を浸していると、旅籠屋《はたごや》の軒場軒場の行燈《あんどん》に火が入りました。それをながめると道庵は、足を洗うことを打忘れ、
「ははあ、初雁《はつかり》もとまるや恋の軽井沢、とはこれだ、この情味には蜀山《しょくさん》も参ったげな」
事実、江戸を出て以来の情景に、道庵がすっかり感嘆しました。
ところが、そこへ、おあつらえ向きに遠く追分節が聞え出したものだから、道庵がまた嬉しくなりました。
「すべて歌というやつは、本場で聞かなくちゃいけねえ」
両側に灯《ひ》をともしはじめた古駅の情調と、行き交う人の絵のようなのと、綿々たる追分節が詩興をそそるのに、道庵先生が夢心地になりました。
「あの、お連れさんをお迎えに出しましょうか」
女からこう言われて、ハッと気がついて、
「そのこと、そのこと、急いで人を出しておくんなさい。大将、まごまごしているだろう、間違って坂本の方へでも落っこってしまわねえけりゃいいが……」
道庵がはじめて、米友のことを思い出しました。
「ね、いいかい、人相はこれこれだよ、間違えちゃいけねえ。なあに、間違えようたって、間違えられる柄《がら》じゃねえんだが、人間が少し活溌に出来てるから、気をつけて口を利《き》いてくんなよ、腹を立たせると手におえねえ」
そこで、米友の人品を一通り説明して聞かせましたから、宿の者は心得て、米友を迎えに出かけました。
道庵が、そこで足を洗いにかかると、この宿の楼上で三味線の音《ね》がします。そこで道庵が、またも足を洗う手を休めてしまって、
「古風な三味線の音がするが、ありゃ何だい」
「説教浄瑠璃《せっきょうじょうるり》がはじまりました」
「説教浄瑠璃と来たね、今時はあんまり江戸では聞かれねえが……なるほど、苅萱《かるかや》か、信濃の国、親子地蔵の因縁だから、それも本場ものにはちげえねえ……」
見るもの、聞くものに、一通りへらず口をたたかなければ納まら
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