ぬ道庵、まだ洗足《すすぎ》の方はお留守で、往来をながめると、急ぎ足な三人連れの侍、東へ向って通るのを見て、
「はてな……時分が時分だから、大抵はこの宿《しゅく》で納まるのに、あの侍たちは、まだ東へ延《の》す了簡《りょうけん》と見える、イヤに急ぎ足で、慌《あわ》てているが、ははあ、これもお差控《さしひか》え連《れん》だな……」
と嘲笑《あざわら》いました。
 お大名の道中のお供《とも》の侍にはかなりの道楽者がある。道中、渋皮のむけた飯盛がいると、ついその翌朝寝過ごして、殿様はとうにお立ちになってしまったと聞いて、大慌てに慌てて、あとを追いかけるけれども、三日も追いつけぬことのあるのは珍しくない。その時は別におとがめも受けないが、国表《くにおもて》へつくと早速「差控え」を食うことになっている。図々しいのになると、差控えの五犯も六犯も重ねて平気な奴がある。
 今し、泊るべき時分にも泊らず、行手を急ぐ三人連れの侍は、多分、そのお差控え連に相違あるまいと、それを見かけて道庵が嘲笑いました。
 人のことを、嘲笑う暇に、自分の足でも洗ったらよかろうに、宿でも呆《あき》れているのをいいことに、道庵は、
「ザマあ見やがれ、お差控えの御連中様……あは、は、は、は……」
と高笑いをし、ようやく身をかがめて、今度は本式に足を洗いにかかる途端に、風を切って飛んで来て、うつむいて足を洗っている道庵の頭に、イヤというほどぶつかり、そのハズミで、唸《うな》りをなして横の方へけし飛んだものがありますから、道庵が仰天して、すすぎの盥《たらい》の中へつッたってしまいました。
「あ痛え……」
 見れば一つの提灯《ちょうちん》が、往来中《おうらいなか》から飛んで来て、道庵の頭へぶッつかって、この始末です。

         三

 頭の上へ降って来た提灯に、道庵は洗足《すすぎ》の盥《たらい》の中へ立ち上って驚き、驚きながら手をのばして、その提灯を拾い取って見ると、それは梅鉢の紋に、御用の二字……ははあ、加賀様御用の提灯というやつだな……
 道庵は、片手で頭をおさえ、片手でその提灯を拾い上げて、盥の中に突立っていると、
「ど、ど、ど、どうしやがるでえ、待ちねえ、待ちねえ、待ちやがれやい、三ぴん」
 その喧《やかま》しい悪罵《あくば》の声は、すぐ眼の前の往来のまんなかで起りました。
 見れば、荷駄馬の手綱《たづな》をそこへ抛《ほう》り出した一人の馬子、相撲取と見まがうばかりの体格のやつが、諸肌《もろはだ》ぬぎに、向う鉢巻で、髭《ひげ》だらけの中から悪口をほとばしらせ、
「待ちやがれ――この三ぴん」
 追いかけて、つかまえたのは、さいぜん道庵先生が嘲笑《あざわら》った三人連れのお差控え候補者の中の、いちばん年かさな侍の刀の鐺《こじり》です。
「すわ」
と、北国街道がドヨめきました。
「何、何事だ」
 刀の鐺をつかまえられた侍はもちろん、三人ともに眼に角を立てて立ちどまりますと、くだんの悪体《あくてい》な馬子が、怒りを向う鉢巻の心頭より発して食ってかかり、
「見ねえ、あ、あれを、どうしてくれるんだい、やい、あの提灯をよう」
「ははあ、あれは貴様のか、急いだ故につい粗忽《そそう》を致した、許せ」
 年かさな侍が陳謝して過ぎ去ろうとしたのは、たしかに自分が、右の馬子とすれちがいざまに、あの提灯に触って振り落したという覚えがあるから、聞捨てならぬ悪口ではあるが、軽く詫《わ》びて通ったのが勝ちと思ったからです。
「何、何をいってやがるんだ、あれは貴様のか、急いだためついしたそそうだと……よく目をあいて拝みやがれ、あれは加賀様の御用の提灯だわやい」
 かさにかかった悪態《あくたい》の馬子は前へ廻って、件《くだん》の侍の胸倉を取ってしまいました。そこで軽井沢の全宿が顫《ふる》え上りました。
 道庵先生は、これは自分の頭へ提灯が降って来た以上の出来事だと思いました。自分の頭も多少痛かったが、いわばそれは飛ばっちり[#「飛ばっちり」に傍点]で、本元は今そこで火の手が揚っているのだ……こういう場合に、よせばいいのに、道庵がのこのこと現場へ出かけたのは、まことによけいなことです。
 道庵は問題の提灯《ちょうちん》をさげて、尻はしょりで、盥《たらい》から跣足《はだし》のままで抜からぬ顔で、火元へ出かけようとするから、玉屋のあだっぽい飯盛《めしもり》が、飛んで出て、
「お客様、およしなさいまし、ほってお置きなさいまし、あれは裸の松さんといって、加賀様の御用を肩に着て、力が五人力あるといって、街道きっての悪《わる》で通っていますから――」
 そっと、ささやいて道庵を引留めましたけれど――およそ道庵の気性を知っている限りの人においては、左様な諫言《かんげん》を耳に入れる人だか、入れない人だかは、先刻御
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