まいます、衣類はどなたでも御着用なさいませ、琵琶はおそらく私に限って、破れた一面の琵琶でも、私にお授け下さればこそ、その用をなすというものでございます……その琵琶だけは……とこう申しましたのが返す返すも、私の未熟ゆえでございます。すでに曾無一善《ぞうむいちぜん》の裸の身と申しながら、またも一枚の着物を惜しみ……一面の琵琶を惜しむ、浅ましい心、それが無惨に蹂躙《ふみにじ》られたのは、もとよりそのところでございます。まだツベコベと文句を並べるか……察するところ、貴様はこの月琴の胴の膨《ふく》らんだところへ、路用を隠しておくのだな、木にしては重味がありすぎる……大方、この胴の中へ、小判でも蓄えておくのだろう――と言ってその琵琶をメリメリと踏み壊しておしまいになりました。とかく、私の言うことが癪《しゃく》に障《さわ》ったものでしょう。それと、せっかく踏み壊して見た琵琶の胴の中にも、一文の蓄えもあろうはずはありませんから、その癇癪《かんしゃく》まぎれに、私の身を裸で一晩涼ませてやるといって、この通りの始末でございます。いいえ、それだけのことを覚えてはおりますが、別段、怪我といってはございませぬ、縛られる前に、蹴られたとき気が遠くなりました、それまででございます。いいえ、何とも思ってはおりません、さのみ悲しいとも思ってはおりません、あなた様に助けられても、さのみ嬉しいとは存じません……ああ、私も今までずいぶん苦労も致しましたし、命を取られるような目に逢ったことも幾度もございましたけれど、本当に裸の身にされたのは今宵が初めてでございます、この肉身一つのほかに、持てる物をことごとく奪われたのは今回が初めてでございます。いいえ、奪われたのではございません、持つべからざるものを持つが故に、召し上げられたのでございます……仏があの人の手を借りて、私の劫初《ごうしょ》以来の罪業《ざいごう》を幾分なりとも軽くしてやろうと思召《おぼしめ》して、かりに私の身から一切の持物を取っておしまいになりました。しかし、着物は剥ぎ取られましても、この心にはまだまだ我慢邪慢の膿《うみ》のついた衣が幾重《いくえ》にも纏《まと》いついておりまする。それを一枚一枚脱ぎ去って、清浄無垢《しょうじょうむく》の魂を見出した時に、初めて、その魂に着せる着物が恵まれねばなりませぬ、そのとき恵まれた着物のみが、本当に私の着物でございます。曾無一善の身には、世間の衣一枚は私の悩みでございました……」
弁信が例によって一気にここまで喋《しゃべ》ったのを、お銀様はどう聞いたか、
「弁信さん、私のうちへおいでなさい、あなたに着物を着せて上げますから……」
お銀様は弁信法師を伴って、故郷の有野村へ帰りました。
お銀様自身は故郷にそむいていたつもりだが、故郷はお銀様の来《きた》るを温かく迎えます。父の伊太夫は泣いて喜び、既往一切の我儘《わがまま》を忘れてくれました。
今まで、ことごとくわれにつらしと思っていた家中のすべてが、みな温かい心を雨のように降らして、そむいて来たものを、なついて来たもののように迎えるのは、多少お銀様のかたくなな心を解いたかも知れません。
しかし、その日は暗いうちにわが一間に入り、翌日は一切、日の目に自分の顔を見せず、無論、家中の誰にも面会ということをしないで、お銀様は、おのが部屋に籠《こも》りっきりであります。
それと反対なのは弁信法師で、もう、たどりついたその晩から、有らん限りのお喋りを発揮して、当るを幸いに相手として喋り続け、今朝も起きて、倉に所蔵の白無垢《しろむく》の小袖と、黒の法衣を着せられた時から、人に向って喋りました。
それを聞きつけたお銀様が、窓の向うから窘《たしな》めるように、
「弁信さん――これから、あなたの仕事として、東の土蔵に昔から蓄えている楽器の音《おん》を調べて下さい、そうして、使えるのは使えるように、使えないのは使えないように……」
底本:「大菩薩峠9」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 五」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年1月9日作成
2006年5月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全88ページ中88ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング