れて歩いていた道は、忘れもしない竜王道。
 知らず識らず、自分は故郷の方へ近く歩いていたのだと知りました。
 このあたりは、もう、人家とては一つもなく、往来もまた人通りがありません。
 故郷の有野村。
 そんなつもりではなかったのに、どうしてこちらへばかり足が向いたのか。
 越鳥《えっちょう》は南枝に巣くうということだが、いい知らぬ人情が、本能的に人を故郷の方へ向けてしまうと見える。
 ああ、あれは有野村のわが屋敷の中の森ではないか、あの黒いのは。
 有野村一帯は父の家のようなものだが、わけてあの黒い森の下に自分のと定められた家がある。
 故郷、自分は故郷へ帰るつもりではなかったのだ、故郷を避けて通るつもりであったのに、故郷が自分を引きつける。あの暗い森の下に、やはり温かい何物かがあって、この荒《すさ》み果てた自分を迎えてくれようとするその懐し味こそ、なかなかに仇。故郷の山川は、やはり温かいものを持っているのに、それにしても、わがこの身の何という荒み方!
 お銀様は留度《とめど》もなく涙が流れました。その涙を拭おうとすればするほど泣けてたまりません。
 呪《のろ》われた自分、ひねくれたわれ。泥土のようにわれとわが身を蹂躙《じゅうりん》して慊《あきた》らないこの身に、呪詛《じゅそ》と、反抗と、嫉妬と、憎悪と、邪智と、魔性《ましょう》のほかに、何が残っている。
 人は故郷へ帰るが、魂はどこへ帰る。
 故郷はこの醜骸を迎うるに、温かき心を以てするとも、この傷ついた魂をいたわるものは、いずれにある。
 お銀様は、そこに立って、ひた泣きに泣きました。涙の限り泣きました。
 慈愛あって、その慈愛を信ずることのできない父の名を呼んで泣きました。
 自分の形骸を壊して、こんな生れもつかぬ醜いものとして陥れたと信じている継母の名を呼んで、お銀様は泣きました。
 ほとんど白痴に近い弟の三郎――やがて有野の家の当主となって、無意味なる財産のためにさいなまるべき弟の名を呼んで泣きました。
 最初の愛人幸内の名を呼んで泣きました。が、今はその愛人も無く、それを虐殺した人もありません。
 われは惨虐と、貪汚《たんお》と、漂浪と、爛《ただ》れたる恋と、飽くことなき血を好む――と、お銀様は強《し》いてこれをいおうとしたが、おぞくも涙にくれて、それは立消えとなりました。
 欲しいものはなんにもない。ただ純な心一つが欲しい。その心一つを抱いて故郷の土が踏めるなら――と、お銀様の魂がしきりに叫びました。
 傷ついた魂から血が流れます。お銀様はその血を押えながら街道を歩みはじめました。道が竜王の松原へかかって、有野へはこれから曲ろうとするところ。
 ふと、赤児の泣き声がする。遠いところで乳呑児《ちのみご》が、糸のように泣いては泣きやむ。
 その声を聞くと、お銀様は地上を覗《のぞ》いて見ました。
 血は流れていないが、物がある。
 お銀様はギョッとしてたちどまりました。
 だが、それはその昔、蹴裂明神《けさくみょうじん》の前で見た捨児ではない。長塚新田の馬喰《ばくろう》が落したハマでもない。この街道には相応《ふさ》わしからぬもの――
 柱が二つに折れ、半月から腹まで無惨に踏み裂かれた一面の琵琶が、街道の地上に露を帯びて打捨てられてある。
 お銀様は一見して、これは追剥に逢ったのだと思いました。人間が追剥に逢ったのではない。琵琶が――琵琶そのものが悪漢に捉まって、首を切られ、腹を裂かれたのだ。琵琶そのものがここで無惨にもあえなき最期《さいご》を遂げたのだと思いました。
 こういう場合、人間の死骸よりも、有るべからざるところにある物の死骸が物凄い。見給え、琵琶の腹から夥《おびただ》しい血潮が流れている――
 人間の手に作られて、人間の用をなすもので、人格の備わらぬというは一つもない。
 琵琶が殺されている。
 しかし、琵琶の殺されたことは、わが身に何のかかわりあることではない……とお銀様は冷然としてそこを歩み去って、左に折れました。韮崎《にらさき》から信濃境へ行く道とわかれて、有野から白根山脈の前面を圧するところ。
 釜無川につづく竜王松原の中、一歩、足を踏み入れたと思うと、人の呻《うめ》く声を聞きました。
 そこで、お銀様は再びギョッとして振返ったのはさいぜんの琵琶で、呻きの声はただいまのその琵琶から起ったのではないか?
 それならば脈がある……あれほど無惨に殺された琵琶に、まだ一縷《いちる》の生命が残っていたか……地上に残された琵琶の形が助けを呼んでいる。
 お銀様は怖ろしいと思いました。
 しかし、琵琶がよし助けを求めたとてそれが何だ。自分にかかわったことではない――とお銀様は再び冷然として、また竜王松原の中へ足を踏み入れること一歩。
 そこに、また人間の呻く声を聞
前へ 次へ
全88ページ中85ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング