一俵、少なくも十五貫はあるだろう。普通の百姓ならば、苦にならない荷物だが、この男にとっては堪え難い負担で、一足行ってはよろめき、二足行っては倒れるのを、起してやって、またたたき立てて歩かせる。
 舞台から花道を一廻りする間に、ヘトヘトになってしまいました。
 それで、七廻り目に、息も絶え絶えになって倒れたのを楽屋へ担ぎ込んで、水を吹っかけたりして力をつけました。そんなことで、芝居はさんざんな体《てい》になってしまったが、その夜のうちに荷物を纏《まと》め、翌日はこの一座が掻《か》き消す如く松本の市中から消え失せてしまいました。
 道庵主従は、その足で浅間の温泉へ行き、鷹の湯へ泊りましたが、そこは宇津木兵馬も宿を取っているところ、まもなく仏頂寺、丸山、その他二人の壮士も押しかけて来ました。
 その翌日、松本の市中から浅間の温泉までが、にせものの海老蔵の噂、
「いったい、狂言をやるにも、役者の名をつけるにも、いちいちお役所へ届けることになっているだろうが、あんなにせものはお役所で、ズンズンひっぱたいてしまえばよかりそうなもんだ……」
と言う者がある。
「蠅のようなやつらだから、お上《かみ》でも始末に困るだろう」
と言う者もある。
 とにかく、仏頂寺弥助のしたことを悪くいう者はない。
 今後、ああいうにせものが来たら、お侍の手を待たず、われわれでブッちめてしまう方がいい、と町内の青年団が力《りき》む。
 川中島の百姓たちの利《き》かない気性を褒《ほ》めて、俵責めの手段を痛快なりとし、今後、生意気な芸人共はあの手段で行くがいいと唱え出す者もある。
 いったい、芝居だとか、写し絵だとかいうものを見せるのは、淳朴《じゅんぼく》なる気風を害するものだから、今後一切あんなものは松本の市中へ足を入れさせないことにしたらどうだ、と提案する者もある。
 それは極端だ――よい演劇や、よい写し絵は、われわれの労を慰めた上に、意気を鼓舞し、人間に余裕《ゆとり》をつけ、世間を賑わすものだから、よい演劇や、写し絵は、進んで歓迎してもよろしい。おれ[#「おれ」に傍点]は忠臣蔵の芝居を見て泣いたという者がある、楠公《なんこう》の写し絵を見て、急に親孝行になった者もあると言い出す。
 本当の芝居好きは芝居好きで、また仏頂寺らのしたことに感謝する。ああいうにせものの面《つら》の皮を引ん剥《む》いてくれたので、今後は松本の市中へにせものが入り込まず、おかげで、これからは本格の勧進帳でもなんでも見られるだろうと喜ぶ。
 すべてが、仏頂寺や、川中島の百姓たちの取った手段を、悪いという者のない中に、市中の一角に巣を食っていたガラクタ文士の一連だけが、文句をいいはじめました。
 横暴である、暴力団の行為である、暴力を以て芸術を蹂躙《じゅうりん》するのはよろしくない、と騒ぎ出したのがある。
 それらがまた不相当の理窟を付けて、なにも弁慶というものは市川家の弁慶ではない――海老蔵とそのまま出せば冒涜《ぼうとく》にもなろうが、ちゃんと遠慮して海土[#「土」に傍点]蔵としてあるではないか、人間には呼び名の自由がある――なんぞとガラクタ文士が理窟を捏《こ》ね出しました。
 この連中は常に、クッついたり、ヒッついたりする物語を書いて、おたがいに刷物を配っては得意がっている。親たちがそれを意見でもしようものなら躍起となって、芸術は修身書ではありませんよと叫び出す。
 そうクッついたり、ヒッついたりすることばかり書くことは罷《まか》りならん――と、お役人からお目玉を食うと、彼らの憤慨すること。そこで忽《たちま》ち官憲の横暴呼ばわりが始まる。
 翌朝、道庵先生がお湯に入っていると、それとは知らず、こんな不平を道庵の前へ持ち出して、仏頂寺の乱暴を鳴らす若いのがありましたから、道庵は、お湯の中でそれを聞き流していると、いよいよいい気になって、クッついたり、ヒッついたり、吸いついたりするところをやって何が悪いでしょう、外国では……と、際限がないものですから、道庵先生が居眠りをするふりをして、その頭をコクリコクリと若いのの頭へブッつけました。
 年こそとったれ、道庵の頭はなかなかかたいのですから、それをコツリコツリ、ブッつけられてはたまらない。クッついたり、ヒッついたりの青年は、慌《あわ》てて湯から飛び出してしまいました。
 幕末維新の時代は、政治的にこそ未曾有《みぞう》の活躍時代であったれ――文学的には、このくらいくだらない時代はありませんでした。
 これを前にしては、西鶴の精緻《せいち》が無く、近松の濃艶が無く、馬琴の豪壮が無く、三馬の写実が無く、一九の滑稽が無い――これを後にしては紅葉、漱石の才人も出て来ない。況《いわ》んや上代の古朴《こぼく》、簡勁《かんけい》、悲壮、優麗なる響きは微塵《みじん》
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