まった空気の中へ、
「百姓!」
といって、大きな石を投げ込みました。
 いったん戻りに向った群集がその声で驚かされて、立ち止って、舞台の方を見ると、一人の気障《きざ》な男が顔色を変えて、
「百姓! 貴様たちに、勧進帳の有難味がわかってたまるか!」
と叫びました。その有様は、見物に向って喧嘩を売るような調子でしたから、一時は見物もみんな呆気《あっけ》に取られていると件《くだん》の周章者《あわてもの》は、いよいよ急《せ》き込んで、
「百姓! 手前《てめえ》たちに芝居がわかるか!」
 これはあまりに聞き苦しい言葉ですから、誰もこれを聞いて胸を悪くしないものはありません。芝居の方でも、これは悪いところへ、よけいな口を利《き》いてくれたものだと心配し、見物の方ではようやく腹に据《す》え兼ねていると、
「百姓! 江戸の芝居が見たけりゃ、出直して来い!」
 そこで立ったのが、例の川中島の上月一家の百姓たちでありました。
「ナニ、百姓がどうした?」
 今まで坐っていたこの一座が、初めて総立ちになりますと、統領の上月が、必ずしもそれを留めませんでした。
「百姓!」
 楽屋の周章者《あわてもの》は、真青《まっさお》になってまた罵《ののし》りかけた時、十余人の川中島の百姓たちが、気を揃《そろ》えて舞台の上へ飛び上ったから、またまた問題がブリ返りました。
「百姓がどうしたというのだ」
 福島正則以来の気概といったようなものを持つ川中島の百姓たちは、早くもその気障《きざ》な周章者を取囲んでしまいました。これは上月も、あながちさしとめなかったものと見えます。
 さてまた、劇外劇の引返しがある。
 周章者《あわてもの》の考えでは、こうして自分が啖呵《たんか》を切れば、味方が総出で自分を助けてくれる――とでも頼みにしていたのでしょう。それが一人も出ないから、テレ切ってしまいました。
 結局、その十余人の川中島の百姓たちが、件《くだん》の周章者《あわてもの》を引ッ捕えて、百姓呼ばわりを充分に糺問《きゅうもん》しました。
 昔は天子自ら鍬を取って、農業の儀式をなされたものだと叫ぶ者もあります。
 農は国の本だ、宝は「田から」である、土から出づる物のほかに、人間の生命《いのち》をつなぐべきものはない、と呼号する者もあります。
 われわれは百姓に違いない、お前のような遊民とは違うぞ! と力《りき》むものもあります。
 舞台の方に味方がないのに、見物の方に共鳴が多いのですから、周章者が、いよいよ狼狽《ろうばい》しました。
 この周章者も、最初からの様子をよく知っていたならこういうこともあるまいに、外出していたところへ、芝居に騒動が持上って、見物が役者をとっちめたと聞いた早耳で、血相をかえて舞台へ飛んで来て、いきなり百姓呼ばわりをしたのが悪かったのです。
 仏頂寺、丸山、壮士らは取合わず、元の座へ戻って、次の百姓問題を笑いながら見ていました。
 道庵先生も、一時は、その不意に驚かされましたが、やがて事のなりゆきを見て、これはあの連中の処分に任《まか》しておいた方が面白かろうと、引返して見物席に納まる。
 そこで十余人の川中島の百姓たちは、周章者を小突き廻して、こもごも百姓のいわれを詰《なじ》りはじめる。
 周章者《あわてもの》は、決して農民を侮辱する意味で百姓といったのではない――と弁解する。侮辱する意味でなければ何の意味で、百姓呼ばわりをしたのだと押返す――口癖だという。悪い口癖だと口を抓《つね》る。
 普通の百姓ではこうはゆきますまいが、信州川中島の百姓は、ことに福島正則以来を誇りとするこの部分の川中島の百姓には、強いのがおりました。この上月は帯刀の身分であった上に、連れて来た十余人の百姓たちも利《き》かない気であった上に、力もあれば、相当に剣術も心得ている。以前の時は傍観者の地位にいた上月も、百姓呼ばわりの悪態が聞捨てならず――指図はしないが、差留めもしなかったのです。
 この十余人の百姓たちは、周章者を懲《こ》らしめのため、一つはまた百姓という名前のために、この男を捕えて、見物一同の前に失言の取消しと、謝罪をやらせようとする時、気の立った見物が、それだけでは承知しないで、今後の見せしめに肥桶《こえたご》をかつがせて、舞台を七廻り廻らせろと発議する者もありました。
 それはあまりに酷《むご》い。しかし、百姓を侮辱するのは、つまり食物を侮辱するのである。食物を食うことのみを知って、その貴《たっと》きを知らない奴には、その有難味を思い知らせるがよい。そこで米俵を背負わせて、舞台から花道を七廻りさせるのが順だろう、という説も出ました。
 そこで、この周章者は四斗俵を背負わせられて、猿廻しをするように、前後をたたき立てられながら、舞台から花道を廻らせられることになる。
 
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