わぬばかりの下司根性《げすこんじょう》、見てはいられぬ――市川宗家の名優ともあるべき者が、こんな、くだらない弁慶を見せられるか」
怒気紛々《どきふんぷん》として弥助が罵《ののし》りました。
この意外なる劇外劇で、場の内外は総立ちとなり、慌《あわ》てて逃げ惑うたものまでが、怖いもの見たさに立ちとどまって、事のなりゆきを注視しているの有様です。
そこで、後ろの方は何が何だかわからない。
無頼漢が飲代《のみしろ》を借りに来たのを役者が貸さなかったから、それで暴れ込んだのだという説もあります。
あまり人気があるから、他座の者がそねんで、壮士を向けたのだという者もあります。
なかには、あんないい役者をなんだって、あんなに苛《いじ》めるのだろう、憎らしい、と口惜《くや》しがる娘たちもあります。
ちょうど土間の中ほどに陣どって見物をしていた信州川中島の上月《こうづき》というのが、連れて来た十余人ばかりの百姓の驚き騒ぐのを鎮《しず》めて言うには、
「立たないで見ていろ、あの侍の言うことは聞ける、無理ばかりは言っていないのだから」
川中島の上月というのは、代々百姓をしているが、先祖は、福島正則《ふくしままさのり》が川中島へ配流《はいる》された時の一族だということで、今日は塩市をあての買物を兼ねて十余人の百姓をつれて――この百姓たち、いずれも正則以来の由緒《ゆいしょ》を以て誇っている――この一座を見物していましたのです。そこで上月はつづけて、
「あの侍のいうことが必ずしも乱暴ではないよ……わしも、江戸へ出て、時々芝居を覗《のぞ》いたが、こういう無法な勧進帳はやらない。第一海老蔵という役者は、いま江戸には名をつぐ者がないはず。贋物《にせもの》に違いない」
「へえ、贋物に違いありませんか、太《ふて》え奴ですね」
「あんなにするまでもなかろうが、癖になると悪いから、ちっとは懲《こ》らしめるもよかろう。名前というものは大切なものだ、それに勧進帳のような大芝居は、やはり相当の尊敬をもって扱い、宗家を立てるようにしておかないと、芝居道が乱れる。贋物は時々トッチメてやるのが芝居道の薬だ」
上月は落着いて、立とうともしないから、連れの百姓たちもその気になり、
「皆さん、前が高いよ、お坐りなさい」
この一団だけは坐ったままで、前の群集を払って、ゆっくりとこの劇外劇の余興を大詰まで見ていようとする。
その時、舞台の上なる仏頂寺弥助は、組敷かれた弁慶の兜巾《ときん》に手をかけて、
「団十郎とか、海老蔵とかいう名前は、芝居の方では太政大臣《だじょうだいじん》だ、その人を得ざれば、その位を明けておくのが、その道の者の礼儀ではないか。形式に囚《とら》われて、偶像を拝むように拝めというわけではない、貴様のような身の程知らずが、盲目《めくら》千人の世間をばかにしたつもりでいるのは、芝居道を害するのみならず、世間の礼儀と、秩序というものを紊《みだ》る憂《うれ》いがあるから、貴様たちのような木《こ》ッ葉《ぱ》を相手にするのは大人げないと知りながら、こうして折檻《せっかん》にあがったのだ、以後は慎め」
と言いながら仏頂寺は、弁慶の兜巾を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り取り、鈴懸《すずかけ》、衣、袴まで※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]り取ろうとする有様は、この弁慶の身体には危害を加えないが、身の皮を剥いで懲らしめるの手段と見えました。
他の二人の壮士は、それを擁護して、もしや仏頂寺のなすことに手出しをする者があらば、いちいち取りひしいでくれようと肩を怒らしている権幕の物凄《ものすご》さに、これは力ずくではいけないと思って、一座の頭取、狂言方、番頭の類《たぐい》の非戦闘員が総出で、仏頂寺の前に平身低頭して来ました。
何といって、謝罪《あやま》っているのだか聞えないが、彼等が百方謝罪をしているのを仏頂寺は耳にも入れず、メリメリと弁慶の衣裳剥ぎをやっている。
道庵先生が立ち上ったのはこの時であります。
今まで鳴りを鎮めて事の体《てい》を見ていた道庵先生が、ここは己《おの》れの出る幕だと思いました。ここいらでおれが出なければ、納まりがつくまいと思いました。
「友様……事を好むわけではねえが、見たところみんな口の利《き》きようを知らねえ人様ばっかりだ、ここでひとつ拙者が、時の氏神と出かけねえければ納まりがつくめえ。だが、こういう氏神はまかり間違えば頭の鉢を割られる。そこでお前……そのまかり間違った時は骨を拾ってくんなよ。どれ、水杯《みずさかずき》を一つやらかして……」
道庵は一杯グッと飲んでからに、袴《はかま》の塵を打払って、
「御免よ」
といって人立ちを分けて舞台の方へ進み出しましたから、米友もじっとしてはおられず、それにつ
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