左衛門は同じ家中の師範役、成瀬権蔵、大川八右衛門、広瀬軍蔵というものの嫉《ねた》みを受けて殺されてしまった。自分は兄の重蔵と共に仇討に発足したが、兄は中仙道の板橋で返り討ちになってしまい、自分はここへ身を沈めるようになったのだが、今、あなたと一緒に来た高野弥兵衛というのに附纏《つきまと》われ困っているが、あれはよくない男だというような物語がある。
重太郎、それを聞いて悲憤のあまり、今夜のうちに、お前を連れてここを逃げ、父兄の仇討に上ろうと約束をする。
舞台廻って三浦屋の裏手。松の木から塀越しに二人が忍び出す。それを待構えていた高野弥兵衛一派の者が斬ってかかる。
重太郎は刀、お辻は懐剣を抜いて悉《ことごと》くそれを斬り払ってしまう。そうして二人は手に手を取って暗に紛《まぎ》れて――幕。
この幕もまた、見物の残らずをして息をもつかせない緊張を与えたものですから、幕が下りると一同はホッと息をついて、それからまた反動的に、海老蔵は偉い、お辻はかわいそうだわね、ということになる。
一幕毎に、こうして海土[#「土」に傍点]蔵の人気が沸騰してゆくものだから、道庵までがついその気になり、
「なるほど、海土蔵様もエラい、海土蔵様もエラいには違いないが、この芝居が海土蔵様をエラがらせるように出来ている」
と言いました。つまり、どの幕もどの幕も、海土蔵が一人|儲《もう》けをやるように出来ているので、有象無象《うぞうむぞう》をいいかげん増長させておいて、ここぞというところで撫斬《なでぎ》りにしてしまうのだから、見物は無性《むしょう》に喜ぶ。なにも海土ちゃんに限ったことはない、こういう仕組みにしておけば、どんな役者でもエラくなると思ったのでしょう。
米友に至っては、相変らず要領を得たような、得ないような、酸《すっ》ぱいような、辛《から》いような、妙な顔をして考え込んでいる体《てい》。
対岸の四人連れの一席を見ると、今しも仏頂寺弥助が、あわただしく番付を取り上げて、そうして眉の間に穏かならぬ色を漂わせながら、幾度もその番付を見直しているところです。
二十六
仏頂寺弥助は番付を取り上げて、
「どうも、おれは感心しない」
と丸山勇仙の顔を見ました。
「うーむ」
と勇仙も含み声。
同行の二人の剣客は、至極満足の体《てい》で納まっているらしい。
仏頂寺は何か納まらないものがあるように、
「丸山」
と再びその名を呼びかけて、
「今の海老蔵は、ありゃ何代目だ」
「左様」
丸山勇仙もそれに確答は与えられないらしい。
「海老蔵が団十郎を襲《つ》ぐのか、それとも団十郎が海老蔵になるのか」
「そうさな」
丸山勇仙は、それにも明答は与えられないらしい。
「第一、あの岩見の剣法なるものが、テンで物になっちゃいないじゃないか」
「そこは芝居だよ」
「芝居とはいいながら、海老蔵ほどの役者になれば、もう少し気がつきそうなものじゃ。箱崎の松原でバタバタと二十何人も斬って、いい心持で見得《みえ》を切ったあの気障《きざ》さ加減はどうだ。それに今のあの宇都宮の道場とやら、一刀流と看板が掛けてあったが、岩見の時代にまだ一刀流はない。あの道具、竹刀《しない》、あんなものもまだあの時代には出来はしない。その上、出る奴も、出る奴も、最初から、みんな岩見に擲《なぐ》られに出るので、かりにも岩見と張合ってみようという意気組みのものは一人も見えない、岩見はあいつらを擲るように、あいつらは岩見に擲られるように仕組んであるのが見え透《す》いて、ばかばかしくってたまらない」
「そこが芝居だよ」
「芝居とはいいながら、岩見重太郎をやる以上は、岩見重太郎らしいものを出さなけりゃなるまい、あれでは、海老蔵はこのくらいエラいぞということを丸出しで、岩見という豪傑は、テンデ出ていない」
「そう理窟をいうな、そこが芝居だよ」
「芝居とはいいながら、名優というものは、すべての役の中に自分というものを打込んで、それに同化してしまわなければ、至芸というものが出来るものではない、たとえば団十郎の由良之助《ゆらのすけ》に、由良之助が見えず、団十郎が少しでも出て来た以上は、団十郎の恥だ。しかるにこの芝居は海老蔵だけが浮き上って、重太郎は出て来ない、この海老蔵は人気取りの場当り役者で、決して名優の部類ではないぞ」
仏頂寺弥助がこういうと、四辺《あたり》の桟敷の人が聞き咎《とが》めました。この連中はすべて海土[#「土」に傍点]蔵に随喜渇仰している連中で、息をもつかないで海老蔵を讃美している。その傍でこういって、つけつけと自己崇拝の名優を貶《けな》しつける者があるのだから、自分の本尊様の悪口でもいわれたように、非常に腹を立てて、不興な眼をして、仏頂寺の方を睨まえましたけれど、なにしろ腕っ節の利
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