市川海土蔵」を見つけると、道庵の病《やまい》が出て、昨晩の米友への約束を思い出し、
「さあ、どうでもこの芝居は見なくちゃならねえ……お前に対しての約束もあるからな――」
とうとう道を枉《ま》げて、宮村座というのへ入り込んで、市川海土蔵一座を見物することになったのは感心しないことでした。
二十五
ちょうど、時刻が少し早かったせいか、さしも連日満員のこの大一座も、道庵主従をして、よい桟敷《さじき》を取らせ、充分に見物するの余裕を与えたことが、良いか、悪いか、わかりません。
道庵主従が東の桟敷に、むんず[#「むんず」に傍点]と座を構えると、まもなく、土間が黒くなり出して、見るまに場内が人を以て埋《うず》まってしまいました。かくも短時間の間に、かくも満員を占める人気というものの広大なことに、道庵先生も面喰《めんくら》った様子であります。
一通り場内を見廻して、道庵も人気の盛んなことに驚嘆しながら、酒を取寄せ、弁当を誂《あつら》え、さて番付を取り上げて、今日の番組のところを一通り見ておこうと大きな眼鏡をかけました。
しかし、番付いっぱいに「市川海土[#「土」に傍点]蔵」が書いてあるものですから、どこに外題《げだい》があるのかよくわかりません。仔細に注意して見ますと、ようやく、岩見重太郎も、水戸黄門も、「海土[#「土」に傍点]蔵」の名前の下に小さくなっているのを見つけ、これでよかったと安心しました。
米友は、自分は興行に使われたことがある。両国の大きな小屋で擬物《まがいもの》の黒ん坊にされていた経験があるから、多数の見物には驚かないが、自分がお客となって芝居見物をするのは今日が初めてですから、一種異様な感情に漂わされて場内を見廻しておりました。どこを見廻したところで、ここには米友の見知った面《かお》は一つもありません。
こうしているうちにも、周囲は海老蔵の噂《うわさ》で持切りであります。海老蔵でなければ役者でないようなことをいいます。そうして、もう今までに五度も六度も海老蔵を見て、海老蔵と親類づきあいをしているように吹聴《ふいちょう》しているものも少なくはないようです。ところが米友は、海老蔵も鯛蔵もまだ見たことはない。自分は海老蔵や鯛蔵を見に来たのではなく、芝居というものを見に来たのだから、早く幕があいてくれればいいなと思いました。
それにしても、先生がいやにおとなしいと米友が見返りました。本来こういう盛り場へ来ると、いよいよ噪《はしゃ》ぎ出して手がつけられなくなる心配があるのに、この時はめっきりおとなしいものだから、米友がそこに気がついて見返ると、先生は、番付をタラリとして、いい心持で居眠りをしています。
なるほど、昨晩からのあの噪ぎ方では疲れるのも尤《もっと》もだ、幕があいたら起して上げよう、今のうちは静かに寝かしておいた方が先生のためでもあるし、第一、自分も世話が焼けなくていいと思いました。
そこで米友は、居眠りをさせるにしても、なるべく醜態を人様のお目にかけないようにして居眠りをさせるがよいと思い、番付も取って畳み、道庵の姿勢も少し直してやり、そうして自分は一心に幕の表を眺めて、拍子木の音を待っておりました。
幕あきを今や遅しと待ちかねているものは、米友一人ではありません。
その時分、第一の拍子木が一つ鳴ると、満場が急に緊張して、人気がまたざわざわと立ってきました。
ちょうど、その時です。かねて取らせておいたと見えて、土間を隔てて、米友とは向う前の桟敷に、四人連れの武家が案内されて来て、むんず[#「むんず」に傍点]と座を占めたのは――
だが、それは格別、誰の眼を惹《ひ》くということもありません。士分の者らしいのも二人や三人ではないから、それがために多きを加えず、少なきを憂えず。米友とても同じことで、自分の前の向き合った桟敷へ、四人連れの侍が来たなと気がついただけで、また幕の方へ眼を外《そ》らせてしまいました。
しかし、この四人連れの侍のうちの二人は、たしかに、仏頂寺弥助と丸山勇仙であります。あとの二人は確かに仏頂寺、丸山の友人で、風采《ふうさい》を見ればこれもひとかどの武芸者らしい。ただし、宇津木兵馬はおりません。兵馬がいれば、米友も見知っていたでしょう。
さて、いよいよ幕があきました。
これは一番目狂言の「岩見重太郎の仇討」の第一幕。
八月十五日の夜。筑前国|相良郡《さがらごおり》箱崎八幡祭礼の場。
賑《にぎや》かな祭礼の夜の場面。小早川家中の血気の侍が八人、鳥居の下の掛茶屋に腰をかけて話している。一人が急に、あれへ岩見重太郎が見えたという。
なるほど重太郎が来たと、一同が色めき立つ。その話によると、家中岩見重左衛門の次男重太郎が、山の中へ入って三年間、木の実を食って
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