、例の「市川海土蔵」の辻ビラと、提灯《ちょうちん》が、至るところにブラ下げてあることです。それを大概の者が「海老蔵」と受取って、もてはやしていることであります。
「まあ、いいや、今夜は夜っぴて景気を見て歩こうじゃねえか、川中島の月見と違って、お祭りを見るのは寒くねえ」
と、道庵が言いました。
 そのうちに「夕日屋」という大きな店の前へ来ると、道庵がまた大きな声をしてカラカラと笑い、米友を驚かせました。
「この店もしかるべき大家のようだが、こう人真似《ひとまね》をするようになっちゃあ、身上《しんしょう》が左前になったのかな……番頭にいいのがいねえんだな」
と言いました。
 その夕日屋の大きな店は酒屋でしたが、この家で造り出す酒の名前を見ると、その頃の銘酒の名前を幾つも取って、それを自家醸造の如く拵《こしら》え、それにガラクタ文士を買い込んでしきりに能書を書かせている。
 人の評判を聞いてみると、この店では、いい酒を盗んで来ては、恥知らずの雇人共に金をあてがって、それに水を交ぜて売り出しているのだという。
 ともかくも夕日屋といえば、町内でも一流の老舗《しにせ》であるのが、こういう卑劣な商売の仕方をするようになったのは、つまり番頭に人物がいないからだ。
 良酒を取って来て、それに水を交ぜてごまかして売り出そうなぞは、三流四流の商店でも潔《いさぎよ》しとはしないのに、夕日屋ともいわれる大店《おおだな》がそれをやり出すに至っては、その窮し方の烈しさに腹も立たないで、涙がこぼれる――と噂をするものもある。
 ともかく、道庵先生は有名な飲み手だから、まあ人間の口で飲める酒はたいてい飲んでいるし、その味もよく知っているのだから、ここへ並べた詐欺物《いかさまもの》の酒の看板を見ると、ゲラゲラと笑い出し、
「箆棒様《べらぼうさま》、よい酒が飲みたけりゃあ、よい酒を作って競争するがいいじゃねえか、よい酒を作るだけの頭もなく、作らせるだけの腕もなく、しょうことなしに、どぶの水を持って来て引掻《ひっか》き廻させようなんぞは、吝《しみ》ったれでお話にならねえ」
と言いました。
 事実、道庵は好んで人の悪口をいい、また好んで当擦《あてこす》りをするわけでもなんでもないが、一流の店ともあろうものが、こういう悪酒を作って売り出させようとする手段を卑しむのは、少しも無理がない。ところがそれを聞いた店の者共は、しゃあしゃあとして、
「いい酒であろうと、悪い酒であろうと、大きにお世話だ、空気中へ抛《ほう》り出しておきながら、聞いて悪いの、見て悪いのという理窟はあるめえ」
といいました。
 その理窟は、ラジオでもなんでも、盗み聞いて差閊《さしつか》えない――といって奨励するような口ぶりでありましたから、道庵も呆《あき》れ返りました。
 本来、道庵先生も決して競争を非とはしない。むしろ大いに好んで競争をやりたがる。さればこそ鰡八大尽《ぼらはちだいじん》の如きをさえ向うに廻して大いに争ったが、その争いたるや君子――でないまでも卑劣な争い方は決してしていない。全力を尽して堂々――と、時としては全力を尽し過ぎて滑ったりするが、そこには自分の自信を裏切るようなことは決してしていないのだから、今この一流の夕日屋ともあろうものが、良き酒に水を交ぜてごまかして売るというようなやり方を見て、せせら笑いました。
 それから暫く行って道庵は、また素敵《すてき》なものを見出して喜んでしまいました。
 見れば火を入れた大行燈《おおあんどん》を横に高く、思いきって大きな文字で、
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「市川海土蔵」
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と掲げ、その下に見えるか見えないかの小さな文字で、外題《げだい》が、
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「一番目 岩見重太郎の仇討
 中幕 勧進帳
 三番目 水戸黄門
 大切 所作事」
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と書いてあり、なおその下に小さく月形半十郎だとか、牧野昌三郎、坂東妻公だとか、お茶っ葉の名前を申しわけのように並べ、その大行燈を横町の入口高く掲げてあるのを見たから、道庵がヒドク喜んでしまったのです。
「有難《ありがて》え、勧進帳を旅先で見られるなんぞは、開け行く世の有難さとでもいうんだろう、江戸ッ児も江戸ッ児、市川宗家エド蔵[#「エド蔵」に傍点]の勧進帳、こいつを見のがした日には江戸ッ児の名折れになる」
と道庵が熱心に力瘤《ちからこぶ》を入れて、
「友様、明日を楽しみに待ってくんな、明日こそお前にも芝居らしい芝居というものを見せてやる」
 今や、この芝居もハネた時間と覚しく、見たところ小屋の前の混雑は名状すべくもありません。
 この景気を以て見れば確かに芝居は大当り、そうして出て来る人の口々の噂《うわさ》を聞くと、
「海老蔵《えびぞう》はいいわね、なんて
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