れた連れの者を呼びながら駈けて来たその声に驚かされて、家々の者が出て見たのでしょう。
 ところが、驚かされて出て見た人も、ただそれだけのもので、存外小さな事件と見たから、張合い抜けがしたような思いで、そのあとを見送ってポカンとしているくらいだから、兵馬もそのまま障子を締め、刀と脇差とを以前のところへおいて、さて、これから寝てしまおうと思いました。仏頂寺、丸山は待って待ち甲斐のある輩《やから》ではなし――
 この場はこれで納まったが、納まらないのは、それから行く先々の温泉場の町並。
 例の笠を冠《かぶ》った小者《こもの》が、先生はどこへ行った、先生がまたいなくなった、と喚《わめ》き立てながら駈け廻っているから、だれも、かも、驚かされて出て見ない者はない。何かこの温泉場を根柢からひっくり返す事件でも持上ったかのように飛び出して見ると、件《くだん》の小者。
 それは、子供だろうと思われるほど背が低く、頭には竹の笠を冠って、首には荷物をかけ、手には杖《つえ》をついたのが、跛《びっこ》の足を引きずって、多分、眼中は血走って、そうして、かなりしめやかな歓楽の温泉の町を、ひとりで、騒がせながら飛んで行くのです。
「おい、兄さん、どうしたんだい。何だい、その騒ぎは」
 逗留《とうりゅう》の客で、世話好きなのが差出て聞くと、
「おいらの先生が、またいなくなっちゃったんだよ」
「なに、お前さんの先生がいなくなっちゃったんだって?」
「そうだよ……ちぇッ」
と舌を打って地団駄《じだんだ》を踏んだ人は浅間の人士はまだ知るまいが、これぞ宇治山田の米友であります。
「つまり、お前さんが連れにはぐれたというわけなんだね」
「そうだよ、それも一度や二度じゃねえんだからな、ちぇッ」
 米友が二度舌打ちをして地団駄を踏みました。
 これは、米友が二度舌打ちをして地団駄を踏むのも無理のないことで、またしても、道庵先生が米友を出し抜いて、どこかへ沈没してしまったものと見えます――全く、一度や二度のことではないから、米友としては世話が焼ける。察するところ、善光寺からあんなわけで、松本へ入り込んだ道庵は、今晩は浅間の温泉泊りということを米友にも申し含めておきながら、こんな始末になってしまったものと見える。もとより、こうして家並を怒鳴って歩けば、道庵がこの温泉場に泊っている限り、聞きつけて飛び出すには飛び出すだろうが、道庵ひとりを探すために、温泉場の全体を騒がすのは考えものです。
「兄さん、人を探すんなら探すように、帳場へでも頼んで……いったい、お前のお連れというのは何という宿屋に泊っているんだか、それをいってみな」
 世話好きに訊ねられて、米友が、
「何という宿屋に泊っているんだか、それがわかるくらいなら、こうして怒鳴って歩きゃしねえよ」
「なるほど……それじゃ、お前さんのお連れは何商売で、年は幾つぐらいで、人品は……?」
「商売はお医者さんで、年はもうかなりのお爺さんで、人品は武者修行だ」
と米友がたてつづけに答えました。
 いったい、これはどうしたのだ。尋ねている方が迷子だか、尋ねられているのが迷子だか、わからなくなりました。
 そこへ、またも全浅間の湯を沸かすような賑《にぎ》わいが持込まれたのは、塩市を出た屋台と手古舞《てこまい》の一隊が、今しもこの浅間の湯へ繰込んだということで、遥かに囃子《はやし》の音が聞える、木遣《きやり》の節が聞える。
 そこで、米友をとりまいていた連中も、米友を振捨てて走り出したから、全然|閑却《かんきゃく》されてしまった米友。
 果して、今しも城下から練込んだ養老のダンジリ。
 それを若い衆がエンヤラヤと引いて、手古舞、金棒曳きが先を払う。見物が潮のように溢《あふ》れ出す。
 そこで、誰も米友を相手にする者のなくなったのもぜひないこと。
 ダンジリは上方式、手古舞と金棒曳きは江戸前、若い衆は揃い、見物と弥次とは思い思い。
 屋台の上の囃子は鍔江流《つばえりゅう》。
 この練込みの世話焼に、一種異様な人物が飛び廻っている――
「さあ、しっかりやってくんな、何でもお祭りというやつは江戸前で行かなくちゃあいけねえ、女房でも、子供でも、叩き売ってやる意気組みでなけりゃ、江戸前のお祭りは見せられねえ、ケチケチするない箆棒様《べらぼうさま》」
といって屋台の下から、手古舞のところまで一足飛びにかけて来て、
「そこの芸者、いけねえよ、その刷毛先《はけさき》をパラッと……こういう塩梅式《あんべいしき》に、鬼門をよけてパラッと散らして……そうだ、そう行って山王《さんのう》のお猿様が……と来なくっちゃ江戸前でねえ。おい、こっちの芸者、それじゃお前、肌のぬぎ方がいけねえやな、こうだ、同じことでもこういう塩梅式に肩をすべらせると見た目が生きてらあな、それそれ。
前へ 次へ
全88ページ中67ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング