じみと感心しないことはありません。
けれども、親切も度に過ぎるとおかしいことがあるのじゃない……思いやりも、あまり真剣になるとかえって、人の心を痛めるような結果になりはしないかと、わたし、よけいな心配をすることもありますのよ。
弁信さん。
わたしがこちらへ来る前に、あなたは、わたしのことを言いました。
『お雪ちゃん、あなたは、もう年頃の娘さんだとばかり思っておりますのに、そういうことをおっしゃるのだから驚いてしまいます。信濃の国の白骨のお湯とやらが、良いお湯と聞いたばかりで、その間の道中がどのくらい難渋だか、そのことを、あなたは考えておいでになりません。また、その難渋の道中を連れ立って行く人たちが、善い人か、悪い人か、それも考えてはおいでになりません。私がここでうちあけて申し上げますと、あなたは、その白骨のお湯へおいでになった後か、その途中で、きっと殺されてしまいます。いきて帰ることはできません』
この言葉が、今でもどうかすると、わたしの胸を刺してなりません。何かの機会《はずみ》に、はっとこの言葉を思い出すと、胸を刺されるような痛みを覚えますが、それでも暫くするとおかしくなって、弁信さんらしい取越し苦労を笑います。
わたしに笑われて、あなたは口惜《くや》しいとお思いにはなりますまい。あなたのおっしゃったのが本当なら笑いごとではありません。
わたしがこうして弁信さんらしい取越し苦労に、思出し笑いを止めることができないのは、わたしにとっては勿論のこと、あなたにも喜んでいただかねばなりません。
弁信さん。
わたしは無事で道中を済まし、無事でこの温泉へ着いて、今も無事に暮していますから御安心下さいませ。
ただし、無事といいますうちにも――道中では怖い思いもしました。またここへ来てからも、いろいろの人と逢い、珍しいものも見たり、聞いたり致しました。
弁信さん。
あなたの安心のために、わたしはこのごろの生活ぶりを、逐一《ちくいち》記してお知らせ致したいと存じます……」
[#ここで字下げ終わり]
ここまで筆を運んで、お雪はほつ[#「ほつ」に傍点]れかかる髪の毛を撫でました。お雪はこのごろ、髪を洗い髪にして後ろへ下げて軽く結んでいる。自分もこの洗い髪がさっぱりしていると思うし、人もまた、お雪ちゃんには似合っていると褒《ほ》めもする。山中、外出の機会もなし、慣れてしまえば誰も、それを新しい女だといって誹《そし》るものもありません。
[#ここから1字下げ]
「外へ出て見ますと、周囲の高い山から、雪が毎日、下界へ一尺ずつ下って参ります。やがてこの雪が、山も、谷も、家も、すっかり埋《うず》めてしまうことでしょうが、まだ、谷々は、紅葉の秋といっていいところもありますから、お天気の良い日は、わたしは無名沼《ななしぬま》のあたりまで、毎日のように散歩に出かけます。
温泉の温かさは、夏も、冬も、変りはありません。このごろ、わたしは一人でお湯に入るのが好きになりました。一人でお湯に入りながら、いろいろのことを考えるのが好きになりました。
大きな湯槽《ゆぶね》が八つもありまして、それぞれ湯加減してありますから、どれでも自分の肌に合ったのへ入ることが自由です。真白な湯槽、透きとおるお湯の中に心ゆくまま浸《ひた》っていると、この山奥の、別な世界にいるとは思われません。
昨日も、そうして、恍惚《うっとり》とお湯に浸《つか》っていると、不意に戸があいて、浅吉さんが入って来ましたが、私のいるのを見つけて、きまり悪そうに引返そうとしますから、
『浅吉さん、御遠慮なく』
と言いますと、
『ええ、どうぞ』
と、取ってもつかぬようなことをいって、逃げるように出て行ってしまいました。
なんて、あの人は気の弱い人でしょう。このごろになって、一層いじいじした様子が目立ってお気の毒でなりません。
全く、あの人を見るとお気の毒になってしまいます。死神にでも憑《とりつ》かれたというのは、ああいうのかも知れません。このごろでは、力をつけて上げても、慰めて上げても駄目です。人に逢うのを厭《いや》がること、土の中の獣が、日の光を厭がるように恐れて、こそこそと逃げるように引込んでしまいます。
それにひきかえて、あのお内儀《かみ》さんの元気なことは――お湯に入っているところを見ますと、肉づきはお相撲さんのようで、色艶《いろつや》は年増盛《としまざか》りのようで、それで、もう五十の坂を越しているのですから驚きます。
『あの野郎、もう長いことはないよ』
というのは多分浅吉さんのことでしょう。お内儀《かみ》さんは、浅吉さんを連れて来て、さんざん玩具《おもちゃ》にして、それがようやく痩せ衰えて行くのを喜んで眺めているようです。
浅吉さんていう人も、なんて意気地がないのでしょう。
全く意気地無し――といっては
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