だけの立場なのだから、お絹としては大放心で、吾を忘れるのも無理があるまい。
 もうこれ以上は――神尾も手が届かなくなった。鎧櫃の底はまだ深い。向うも遠いけれども、コジあけた穴の大きさに限りがあるものだから、そこで手の届く限りは掴み出してしまって、再び穴をくりひろげるか、そうでなければ、櫃を打壊すか、ひっくり返すかしないことには、取り出せなくなったので、神尾が手を休めて見返ると、お絹が拾い集めてはいるが、お絹一人の手では間に合い兼ねて、四辺《あたり》は燦爛《さんらん》たる黄金白銀《こがねしろがね》の落葉の秋の景色でしたから、この目覚しさに、自分のしたことながら、自分のしたことに目を覚して、その夥《おびただ》しい金銀の落葉に眩惑し、現心《うつつごころ》で、その中の一枚を拾い取って見ると、疑う方なき正徳判の真物《ほんもの》……
 その時に廊下で、咳払《せきばら》いがして、人の足音が聞え出す。七兵衛が帰って来たのです。
 その咳払いと、足の音を聞くと、吾を忘れていたお絹が、はっと胆を冷しました。
「あ」
 一方を見返ると、自分たちが開け放しておいたところに、七兵衛がヌッと立ってこっちの狼藉《ろうぜき》を見ながら、ニヤリニヤリと笑っています。
「七兵衛か」
と神尾主膳も槍を手にして、帰って来た七兵衛を見返りながら、てれ[#「てれ」に傍点]隠しの苦笑いです。ただ隠しきれないのは、室内に燦爛たる黄金白銀の落葉の光。
「殿様、ごじょうだんをあそばしちゃいけません、御入用ならば、そのままそっくりお持ち下さればいいに……」
 七兵衛は、いつまでも障子の外から、こっちを覗《のぞ》いてニタリニタリと笑っているばかり。
「七兵衛、天下の財宝を粗末にするな」
と主膳がいう。
 主膳も、多少の酒と、黄金の光に、一時《いっとき》眩惑されて兇暴性を発揮してみたけれど、今宵の酒量は乱に至るほど進んではいず、黄金性の魅惑は、かりにも所有主と名のつく者が来てみれば、幻滅を感じないということもなく、こうなってみると、手にさげている槍までが手持無沙汰で、引込みのつかない形です。
 お絹もまた、室内に燦爛たる黄金の光をいまさら、袖で隠すわけにもゆかず、拾い集めて当人に還付するのも変なもの、ほとんど立場を失った形で、てれきっている。
 第一、所有主そのものが、怒りもしなければ、怒鳴りもせず、外でニタニタ笑っているばかりですから、空気の緊張を欠くこと夥しい。妙な三悚《さんすく》みが出来上って、この室内のてれ[#「てれ」に傍点]加減がどこで落着くか際限なく見えた時、気を利《き》かしたつもりか、お絹の持って来て畳の上へ置いた手燭の蝋燭《ろうそく》がフッと消えました。これは蝋燭が特に気を利かして、この場のてれ[#「てれ」に傍点]加減を救ったというわけでもなく、風が吹き込んで吹き消したのでもなく、慾に目の眩《くら》んだ人間のために顧みられなかったものだから、以前は、相当に寿命のあった蝋燭《ろうそく》も、この際あえなき最期《さいご》を遂げたのであります。
「七兵衛さん、悪い気でしたのじゃないから堪忍しておくれ、殿様の御気性で、ホンの一時の座興なんだから。元はといえば、お前があんまり、ひけら[#「ひけら」に傍点]かすから悪いのさ」
 暗くなって、初めてお絹が白々しい申しわけをする。
「なあにようござんすとも、こうしてお世話になっている以上は、何事も共有といったようなものでござんすからね、御入用だけお使い下さいまし、御自由に」
 先夜とは打って変った白々しい気前ぶりを見せた言い方。
 暗い間のバツを利用して、お絹は神尾主膳の手を取って、この座敷を連れ出してしまいました。あとに残された七兵衛、ドッカと胡坐《あぐら》をかいて、ニタニタ笑いがやまない。
 先方は見えないつもり、こちらは暗いところでよく物が見える。神尾の手を引いて、ソッと抜け出したお絹という女の物ごし、散乱した金銀に心を残して出て行く足どり――あの足どりでは、足の裏へ小判の二三枚はくっつけて出たかも知れない。悪い時に帰ったものだ。

 しかし、これが縁になって、その翌日、七兵衛は表向いて神尾主膳に紹介されました。
 うちあけた話になってみると、おたがいに、相当に頼母《たのも》しいところがある。頼母しいところというのは、世間並みにいえば、あんまり頼母しくないところだが、七兵衛は神尾の急を救うために、無条件で鎧櫃の中を融通する約束。今は、先夜お絹にしたような見せつけぶりでもなく、勿体《もったい》もつけず、サラリと投げ出したのは、神尾にとっても、お絹にとっても、頼母しいことこの上なし。
 ところで一つ、七兵衛の方からも、交換条件が神尾に向って提出される。これはお絹の身体を抵当に、なんぞという嫌味なものではなく、七兵衛は七兵衛としての一つ
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