侵すようなものが現われた日には、全力を以てそれに当る――だが、こういう場合には、なんと引込みをつけていいかわからない。
 ぜひなく、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、田山白雲に向って、自分が今日この家をたずねて来たのはいつぞや、両国の楽屋を逃げ出した人気者の山神奇童《さんじんきどう》を、こんど甲州の山の中で見つけ出したものだから、それを引連れて戻しに来たのだということをいい、来て見るとあいにく、お角が留守だったものだから失望したといい、どうかひとつその子供を、お角の帰るまで手許《てもと》に預かってもらいたいということを、手短かに白雲に頼み、
「せっかく、御勉強のところを、お邪魔を致しまして、まことに相済みません」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]としては神妙なお詫《わ》びまでして、そこそこに引上げてしまいました。
 最初の権幕に似合わず、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵がおとなしく下りて来たものですから、梯子段の下に待ち構えて、いざといわば取押えに出ようとした力持のお勢さんも、ホッと息をついて喜んでしまいました。

         九

 その翌日から、田山白雲の周囲《まわり》に、般若《はんにゃ》の面《めん》を持った一人の美少年が侍《かしず》いている。それは申すまでもなく清澄の茂太郎であります。
「おじさん」
「何だい」
 白雲が机の上に両臂《ひょうひじ》をついて、今も一心に十四世紀の額面を眺めている傍から、茂太郎が、
「ねえ、おじさん」
「何だい」
「後生《ごしょう》だから……」
「うむ」
「後生だから、あたいを逃がして頂戴な」
「いけないよ」
「そんなことをいわないで」
「どうして、お前はここにいるのをいやがるのだ、ここの家の人がお前を苛《いじ》めでもしたのかい」
「いいえ、ここの家の人は、親方も、姉さんたちも、みんなあたいを大切《だいじ》にしてくれます」
「そんなら逃げるがものはないじゃないか」
「でもね、おじさん、弁信さんが心配しているから」
「弁信さんというのは何だい」
「弁信さんは、わたしのお友達よ」
「あ、そうか、お前をそそのかして連れて逃げ出したというその小法師のことだろう、いけません、お前はそんな小法師にだまされて出歩くもんじゃありません、おとなしく親方や朋輩《ほうばい》のいうことを聞いていなけりゃなりませんよ」
「いいえ、弁信さ
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