おう》を受けて、よく飲み、よく食い、よく語りました。
房州で駒井甚三郎の厄介になっていたことを逐一《ちくいち》物語ると、お角も自分が上総《かずさ》へ出かけて行った途中の難船から、駒井の殿様の手で救われたこと、それ以前の甲州街道の小仏の関所のことまでも遡《さかのぼ》って、話がぴたりぴたりと合うものですから、お角も喜んでしまって、
「ねえ、先生、今日は観音様のお引合せで、大変よい方にお目にかかれて、こんな嬉しいことはございませんよ」
「拙者も御同様、御同様……」
「先生、これを御縁に、わたくしは一つお願いがございますのよ……」
「なんです、そのお願いというのは?」
「先生、わたしに一つ絵を描いていただきたいのですよ」
「絵描きに絵を描けというのは、水汲《みずくみ》に水を汲めというのと同じことです、何なりと御意《ぎょい》に従って描きましょう」
「ねえ、先生、額を一つ描いて頂けますまいか?」
「額? よろしい。神社仏閣へ奉納する額面ですか、それとも家の長押《なげし》へでも掛けて置こうというのですか」
「先生、ひとつ念入りにお願いしたいんですが。一世一代のつもりで――」
「一世一代――? なるほど」
「実は、先生、わたしは今日もそれを検分かたがた御参詣に参ったのですが、あの浅草の観音様へ納め物をしたいと、疾《と》うから心がけていたんでございますよ……そうして何にしたらよかろうか、さきほどまでいろいろ考えていたのですが、先生のお話を伺っているうちに、すっかり心がきまってしまいました」
「なるほど」
「観音様のお引合せのようなものですから、ぜひ先生にお願いして、器量一杯の額を描いていただいて、それを観音様へ納めようと、こう心をきめてしまいました。先生、もうお厭《いや》とおっしゃっても承知しませんよ」
「なるほど、なるほど。そういうわけなら、拙者も一番、器量一杯というのをやってみましょう……そこで註文はつまり、その額面には何を描いて上げたらいいのかね?」
「先生、納める以上は、今迄のものに負けないのを納めたいと思います」
「左様――あすこにはあれで、古法眼《こほうげん》もいれば、永徳《えいとく》もいるはず。容斎《ようさい》、嵩谷《すうこく》、雪旦《せったん》、文晁《ぶんちょう》、国芳《くによし》あたりまでが轡《くつわ》を並べているというわけだから、その間に挟まって、勝《まさ》ると
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