もなく、外国の物質文明を吸収することはかなり進んでいたが、その文学を紹介し、これを味わうものなんぞはありはしない。
有るものはガラクタ文士の小さな親分。有っても無くてもいいよまいごとを書いて、これを文芸呼ばわりをし、前人の糟粕《そうはく》を嘗《な》めては小遣《こづかい》どりをし、小さく固まってはお山の大将を守《も》り立てて、その下で小細工をやる。その小細工だけは一人前にやるが、彼等から、めぼしい作物というものが一つでも出たということを聞かない。
時に、政治的には勤王党だの、佐幕党だのという呼び声が高かったものだから、この文士連もそれを真似《まね》て、政党気分になったかも知れない。
「お前方、それは料簡《りょうけん》が違いますよ、天下の政治を取るには多数でいかなければならないが、文学や、美術というものは、多数ずくではどうにもならないのだよ、薩摩と長州が力を合わせれば、徳川を倒せるかも知れないが、その力で古法眼《こほうげん》の絵を一枚作るわけにはいかない――」
道庵先生なども、それを戒めてはおりましたが、どうにもならないで、いよいよ堕落するばかりでありました。
だからこの連中は、ガラクタ文士を集めては相当範囲の勢力圏を作り、自党に不利なるものの出現に当っては、伏兵を設けて、白いものを黒く、黒いものを白くする宣伝術策ぶりだけは、腐敗した時代の政党に異ることなく、文学というものを、極めて低劣な手練手管《てれんてくだ》にして、体裁だけは高尚がっておりました。
ロシヤのトルストイが「戦争と平和」を脱稿したのは、この前年であります。フランスのユーゴーが「哀史《レ・ミゼラブル》」を公《おおや》けにしたのは、その五年ほど以前であります。英のラスキンが美術論から、社会改良の理想に進んで行ったのも、この時代のことであります。
しかるに、日本の文学界は前申す通りの、お山の大将とそれを取巻く寄生文士、その争うところは、裸物《はだかもの》を表に出してはいいとか悪いとか、クッついたり、ヒッついたりの題目をさし止めるとは横暴無礼、奇怪千万と血眼《ちまなこ》になること、馬琴という奴は、戯作者《げさくしゃ》の境涯を脱して、道学者気取りで癪だから、猫の草紙を作って、その八犬伝を冒涜《ぼうとく》してやれ! 彼等のなすところは、せいぜいそんなものでありました。
仏頂寺弥助は、その翌日、蝦蟇仙人
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